16 Nov

1999-11-16 mardi

訃報が届いた。
中学時代の恩師が癌で亡くなったのだ。
母親と中学の同級生から相次いで電話があって夕刊の死亡記事を見るように言われて、みたらひとりぽつねんと載っていた。

高橋渡(たかはし・わたる) 日本詩人クラブ会長、調布学園短期大名誉教授、国文学、本名 中山渡。14日午前3時38分、リンパ節腫瘍のため東京世田谷区の病院で死去。76歳。75年、詩集『冬の蝶』で第8回日本詩人クラブ賞を受賞。

私にとっては中学の担任で国語の先生「中山先生」であるけれど、折口信夫門下の詩人、国文学者という別の貌を持っていて、その二重性が分泌するどこか怪しくまた危うい感じはこどもだった私にも感じ取れた。
「おれはこんなところでこんなことをしているはずじゃないんだ」といういらだちのようなものが穏やでスマートな外見からときおり透けて見えた。
おそらく「中山先生」がいちばん「自分らしく」あったのは詩作を通じてであったのだろう。
その詩は白骨にからんだ黒髪のように、知的な叙情性の隙間からなまなましい攻撃的な身体性が露出するもので、現代詩人としての斯界での評価は高かったけれど、私は「こんなのはぼくの知っている中山先生じゃない・・・」というかすかな悲しみを感じずにしか送っていただく詩集を読み通すことができなかった。
最後に送っていただいた詩集は開かれることなく、そのまま研究室の机の上に置かれている。
お礼状を書かなければいけないけれど、そのためにはあの老詩人が吐き出すなまなましい詩篇と、彼の病苦と、彼の抱え込んでいる深い孤独を追体験しなくてはならない。
読み終えて「ご高著拝受しました。ますますのご活躍を心からお慶び申し上げます」というような嘘くさい紋切り型で返信をすることがうしろめたかったので、ずるずると読書を先延ばしにしてしまっているうちに訃報が先に届いてしまった。
そういうものだ。後悔はあとからやってくる。
中山先生が私に与えた影響は少なくない。
その最大のものは「文学は人生を賭けるに値する」というあまり根拠のない思いこみである。
中山先生は中学生の私に何度か作文の宿題を出した。
私にだけ提出が義務づけられたへんてこな宿題である。それは「立たせる」とか「はり倒す」代わりに私の授業中の態度を罰するために出されたのだが、私は数枚の原稿用紙にその課題でふざけた作文を書いて提出し、そのまま何食わぬ顔で授業を受け続け、先生はまた授業中の私のささいな落ち度を咎めては、別の課題を出した。それが幾度か繰り返され、私はそのゲームを楽しんでいた。おそらく先生もそうだったと思う。
どんなことを書いたのかもう覚えていないが、最初の罰作文の題名だけ覚えている。「笑われものの駄々っ子」という題名である。
私はその課題で自分の幼年時代のできごとをくそまじめな文体で戯画化してみせた。
先生はそれを読んで破顔一笑した。
「ルールを遵守しつつ逸脱する」「従順なふりをして抵抗する」というテクニックを私はそのときに中山先生から学んだ。もちろん先生はそんなことを教えるつもりはなかったのだろうけれど。
中学生の私にとって中山先生は知識人としてのロールモデルであり、私はいかにも中学生的な過剰な敬意を先生に向けていた。
高校に入ってしばらくして私はささいないさかいで家を出た。その足で私は中山先生のお宅に行って、高校をやめて自活すると宣言した。先生ならそういう気持がわかってくれると思ったのである。
しかし先生の対応は私には意外なもので、まああまりお母さんを心配させるなよとうまくなだめられて家に連れ帰されてしまった。そして別れ際に親たちに「あまり叱らんでやってください」と言った。
先生はもちろん私のためを思ってそう言ったのだけれど、私はその瞬間に「ああ、このひととの師弟関係は終わったな」と思った。私は幼くも師弟関係は親子関係よりも深い魂の結びつきだと思っていたのである。
私は先生からかつてイエスが弟子たちに言ったような言葉を期待していた。

「わたしが来たのはこの地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜならば、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。わたしよりも父や母を愛するものはわたしにふさわしいものではありません。またわたしよりも息子や娘を愛するものはわたしにふさわしいものではありません。」(マタイ伝10章34−37)

そのあと私は家を出て、高校をやめ、不良少年暮らしで心身をすり減らし、やがてまた屈辱的な和睦を申し出て家に戻り、大学に受かると同時に家を出て、また愚行のかぎりを尽くしたが、そのどの節目においてももう先生に相談することはしなかった。
それどころか40歳になって中学卒業25年目のクラス会までついに一度もお会いしなかった。
9年前のクラス会でお会いしたとき先生は大病のあとですっかり弱っていたけれど、私の手を握って目を潤ませた。
私と会わないあいだもずっと私に賀状を送り、詩集を送り、母に私の安否を問い合わせてくれた先生に私はあまりにも冷たい態度をとり続けたように思う。
けれどもそれは私にとっては中学生の私の中山先生に対するほとんど宗教的な畏敬の記憶を純粋なまま保つためには必要なものだったのである。
先生は私が研究者の道をすすみ、大学の教師になったことをとても喜んでいたと母に聞いた。先生の教え子たちの中で、私はいちばん反抗的なこどもであり、反抗しつつ結果的には文学研究という先生と同じ道に進んだ。その予定調和的な反抗を先生は自分の教育成果として笑って楽しんでいたのかもしれない。
先生は晩年になってカトリック信者となったので、葬儀は成城のカトリック教会で行われる。

1999年11月15日