23 Oct

1999-10-23 samedi

今日はほんとうは大岡淳さんの商品劇場の関西進出の記念すべきイベントがあってそこにいくつもりでいたのだが、「隣の上野先生」からしこたま用事をいいつけられてしまった。授業をふたつすませたあと、これから会議→教授会→会議である。大岡さん、日比さん、行けなくてごめんよ。盛会を祈ります。
難波江さんとすれちがったら、先方も入試出題委員長と教務委員とあたらしくできる英語教育の検討委員会の委員長を兼務して忙殺されているところに締め切り間際の原稿があって「もうどうでもええけん」状態に煮詰まっていた。ふたりでともにいかなる宿世の因縁かしらと涙ぐみつつ「こんどまた飲もうね」と手を振って別れる。しかしふたりで協力して立ち上げたAVライブラリーが連日満員の盛況ときいて、ふたりともすこししあわせな気分になる。

その1)奈良の大峰山は修験道の霊山で、1300年にわたって女人禁制であったところに、この夏奈良の県教組のミリタントなフェミニストたちが、「性差別の習慣の見直し」を求めて女人結界をやぶって登山してしまって、お寺が困惑しているという新聞記事があった。
登ったのは「男女共生」のあり方を探求するひとたちで、「大峰山は国立公園で国民全体のものである。その神聖さは女性を排除する神聖さではない」と主張しているそうである。
新聞報道は断片的だから、ことの当否をこれだけから判断するのはむずかしいが、もしこのワーディングが正確であるとすれば、論理的にはかなりおかしい。
この人たちは大峰山が「神聖である」ということは認めているらしい。ただの山なんだからどんどん登ろうじゃないの。山の上にログハウスを建てて、冷たいビールのんでバーベキューでもしようじゃないの、というふうなことを言っているわけではない。
神聖であることは認めるけれど、女性を排除するような神聖さであることは認めない、とおっしゃっている。
しかし論理的には、神聖なんか知るかい、どんどん登っちゃえ、というよりこっちの方がおかしい。
信仰をもつ人が「聖なるもの」と畏怖している対象について、「このへんは『神聖』だけれど、このへんは『ふつう』でいいじゃないですか」というような適当な境界設定をする基準は何か。その権利はいかなるものであり、誰がそれを賦与するのか。
幻想的な価値に対するスタンスはふたつしかない。
「なにいってやがんだよ、ばか」
というか
「あ、そうですか。どうぞご勝手に。私はあっちでうどんでも食べてます」
だけである。
「おお、それはたしかに神聖ですわな。で、どうでしょ。それを半分捨てて、あと半分だけで我慢するっていうのでは」
というような半端な交渉ごとはこと幻想についてはありえない。
だから、この「男女共生」についてどうたらする委員会のひとたちは要するに「なにいってやがんだよ」と内心では思っているのである。
登山資格に男女差別があるとは言語道断、と思っているのである。うっそー、いまどき修験道なんて信じらーんない、ばかじゃない、と思っているのである。(口に出して言うといろいろさしさわりがあるので、言わないけど)
しかし修験道全体とことを構えるとなると大変だから(うっかり加持祈祷されて調伏されても困るし)信教の自由だから修験道に文句があるわけじゃないけど(ほんとはあるけど)、ただ、「どんな山にも」性差別はいけないわよおと言ってお茶を濁しているのである。
このひとたちのいう「女性を排除しない神聖さ」というのはどういうものなのであろう。
大峰山の神聖さは修験道が規定する神聖さである。その聖性は女性を不浄とする信仰体系の上に築かれている。それが女性を排除しないようになるべきだ、ということは修験道の信仰体系全体を見直せということだろう。
カトリックの女性神父を認めることは、教会の理論とシステムの全体の見直しを意味している。しかし、それは「私は神父になりたい」という信仰篤い女性信者がいるかぎりは検討するに値する論件だ。
「女人結界を認めないぞ」という言葉が「私は山伏になりたい」という女性修験道信者の口からでるのであれば、私はこれを論議すべきだと思う。女性に拓かれた修験道、女性山伏の受け容れについて論じても良いのではないかと思う。
しかし奈良教組のひとたちは山伏になりたいわけではない。女人結界の向こうに広がっている女性には触れることが禁じられた「聖なるもの」にぜひ近づきたいわけではない。国立公園の中の土地なんだから、女にもハイキングをさせろといっているだけである。
「性差別」というような大義名分さえ立てれば、かなり失礼なことをしても許される、という風潮が蔓延している。
繰り返し言うとおり、私は大義名分に文句はない。私がうんざりしているのは、その大義名分を利用して、ひとをどなりつけたり、空威張りをしたり、ひとのいやがることをやって気持ちをさかなでしたりする人間が組織的に産出されていることである。
そのようなひとびとは(本人たちが信じているのとは違って)「男女共生」の大義に賛同しているのではなく、「ひとをどなりつけることのできる立場」に群がってきているのである。

その2)防衛政務次官が辞任した。まったく情けない事件であった。日本の軍事戦略について責任あるポストについた政治家が国際関係を「強姦」というメタファーでしか語れないというのはどういうことなのだ。これは女性差別とかいう以前の政治への、軍事への、国家への、日本のためにこれまで戦って傷ついたすべての先人への冒涜の言葉である。
この男の考えによると、日本が隣国にいますぐ侵略しないのは、隣国の抵抗や国際的な制裁が怖いからだである。軍事的抵抗や国際世論や集団安全保障体制の制約さえなければ、「おれはやるぜ」と言っているのである。
彼は、前大戦の日本軍の海外進出は「強姦」であり、止める奴がいなければ「またやるぜ」と宣言しているのである。
なぜ日本遺族会はこの男を名誉毀損で訴えないのだろう。
こんなにも品性が下劣で、こんなにも頭が悪い人間に日本の軍事システムを任せなければならないほど日本の政治家というのは人材が払底しているのだろうか。
たぶんそうなのだろう。
ひどい話だ。