19 Oct

1999-10-19 mardi

語学の授業で「le Snob」という単語がでてきた。学生さんに訳させるとちゃんと「俗物」という訳語を答えてくれた。でも意味が分かっているのかしら。
「『俗物』ってどういう意味?」と訊いてみる。
「・・・平凡な人、ってことです」
「違うよ。『俗物』というのは、『自分は平凡な人じゃないと思いこんでいる平凡な人』のこと。『スノッブ』は『バナル』よりも程度が低いの」
みんな、ぽかんとしている。
ひとが凡庸である仕方にはかなり多様性がある。
Aさんの凡庸さとBさんの凡庸さのあいだには「増田屋のたぬきそば」と「マクドナルドのチーズバーガー」くらいの違いがある。
しかしひとが俗物であるしかたには、それほどの多様性はない。
仮に秋元康が経営しているレストランと林真理子が経営しているレストランがあるとすると(あるかどうかしらないけど)、そこでフレンチのコース(おまけにコースには LA JEUNE FILLE SOUS L'OMBRE DES FLEURS なんてばかな名前がついているんだ、これが)を食べた後にあなたが感じるであろう
「なんか高いばかりでちっともうまくねーな」
という印象はどちらのレストランでもほとんど見分けがたいものであろう。
俗物性というのはそういう「微分」的な定型性のことである。

おっと、そんな話をしたくてここに来たのではない。
面白い本をみつけた。アメリカの大学の先生たちが書いた本で『映画について考える―映画の見方、問い方、楽しみ方』(Thinking about movies, Watching, Questioning, Enjoying, Peter Lehman & William Luhr, 1999)
映画学科の一年生対象の「映画学入門」。こういうマニュアルを書かせるとアメリカの大学の先生はほんとにいい仕事をする。蓮實重彦とかエドガール・モランとかアンドレ・バザンとか読んでそういうのが映画学だと思っているひとには絶対書けない種類の本である。
アメリカの学者の本だから大事なことはぜんぶ最初の10頁に書いてある。そして、それがほんとうに「大事なこと」なんだ。彼らが序文に書いている問いはそのまま私自身の方法論的問いとワーディングまで同じである。

「映画のある見方が他の見方よりも適切である、ということはありうるのだろうか? 映画を『誤読する』ということはありうるのだろうか? 小説を原作にした映画が原作に『忠実である』と言うことは可能だろうか? ある映画を『お、これはブレーク・エドワーズの作品だな』というふうに見ることができるのはどういう意味においてなのだろう? フィルムの作者はその監督である、とどうして私たちは勝手に思いこんでいるのだろう? 『ティファニーで朝食を』と『酒とバラの日々』と『ピンクパンサー』のブレーク・エドワーズ映画においては何が同じなのだろう?」

そしてこの本は説話構造、ジェンダー=セクシュアリティ=人種=階級、「作者」、スター、観客、文学と映画、といった映画学の中心的トピックを平明な言葉で解説してゆく。
本のねらいはこう説明されている。

「私たちは私たちなりの映画の見方をご披露する。それはこれらの映画が、あらゆる時代のあらゆる観客に対してもつ普遍的意味を学生に教えるためではない。そうではなくて、さまざまな批評的フレームワークを通してみると、映画がどんなふうに違った見え方をするかを示すことにある。」

健全だと思う。映画には正解もないし誤読もない。そこから引き出しうる知見のクオリティに違いがあるだけだ。
もしこの本がアメリカ映画学の標準的な知見を示して、映画学科の一年生がこれくらいのことを「常識」としているのだとしたら、アメリカ映画学の水準は相当に高いということになる。日本の社会学者なんかが片手間にやっている「オリエンタリズム映画批評」や「フェミニズム映画批評」は方法論に対する無自覚性において致命的なビハインドを負っている。
このあとどうなるのか(まだ最初の10頁しか読んでないから)楽しみである。読み終わったら、ブックレビューでご紹介します。

Thinking About Movies