15 Oct

1999-10-15 vendredi

『週刊朝日』の今週号が「私大崩壊、二割定員割れ―あの名門美大、関西のボンボン大も・・・定員割れ」の記事を載せている。」
少子化などの影響で、今春の入学者数が定員に満たなかった私立大学は、全国で 83 校(約二割)短大ではすでに半数以上が定員割れを起こしている。
周知のように、18歳人口は 1992 年をピークに急坂を転げ落ちるように減少をつづけており、このままでは 2008 年頃に「大学全入」(志願者数と定員総数がイーブンになる)が起こる。
定員割れを起こしている大学の特徴は「地方」「単科」「女子」。とくに英文科、国文科は壊滅状態。どこでも指摘されているのが志願者の「実学志向」と「文学離れ」。本学のような、「非実学」系の地方・女子大にとっては多難な時代である。
福祉・看護関係、情報関係の学部に人気が集中というけれど、もちろんいまからその方向にシフトしても新設ラッシュの渦に巻き込まれて激しい競合にさらられるだけ。それに新学科、新学部をつくる財政的リソースは在来の学部学科をスクラップしなければ手に入らない。
「新しい学部をつくるために、いまいる教師はみんな大学を辞めましょう」というような自殺的提案を学科教授会がするはずもない。
そこで「発想の転換」というので朝日の記者が提案しているのは

「いままでは大学がもっている教育力や知識の蓄積は大学生だけに向けられていたのですが、これをもっと広く地域・社会に向けて発信してもいいんじゃないかと思います。(…) 小学生の英語教育にしても、大学の先生が地域の子供たちに英語を教える教室をひらいてもいいわけです。(…) 子供やお年寄りにパソコンを教える教室を開いてもいいと思います。小さくなるパイを大学同士で奪い合うばかりでなく、パイ自体を大きくしていく創意工夫が、これからの私学経営に求められることになるでしょう。」

おいおい、勘弁してくれよ。
それってむかし私たちがふざけて提案した「神戸女学院大学ホテル化計画」とほとんど同レヴェルじゃないか。(「神戸女学院大学ホテル」はチャペルで結婚式もできる)
大学が大学であることを辞めれば生き残れます、という提案でしょう。「英語塾」「パソコン教室」の看板を出せっていうのは。
大学が大学であることを辞めれば生き残れるというのは、大学としては死ね、ということである。
「パイ自体を大きくしていく」というけれど、「小学生の英語塾」や「こどもとお年寄りのパソコン教室」にくるひとたちは「パイ」ではない。
大学にとっての「パイ」はあくまで高等教育を受けようとして大学に進学してくる大学生である。(ごめんね「モノ」扱いして)
そのようなかたちで知的人的リソースを「ばら売り」しろ、というのは、「じゃあ、キャンパスの端っこ売って、そこに駐車場とマンション建てるから、教師のみなさんそこの管理人やってください」と言っているのと論理的には同じことである。
「大学生に英語教えられるなら、小学生にだって教えられるでしょ」というロジックを認めれば、なんだってOKである。「チョークもつ握力があるなら、シャベルで穴くらい掘れるでしょ」「教室の後ろまで声がとどくなら、キャバレーの呼び込みくらいできるでしょ」
ふざけてはいけないよ。おじさん怒るよ。
私たちは私たちにとっての「パイ」を確保するためにいろいろと創意工夫をこらしているのだ。
昨日も書いたように、私の結論は、「パイ」が奪い合いになるのなら、目標値を控えめに「じゃ、パイひときれだけ」と設定するほうが「よーい、どん」の「奪い合い」では目標値の達成が「パイ20切れ」のところより、はやく確実に仕事が終わるだろうというものである。
それは後ろ向きだ、というひとがいるかもしれない。けれど、私はダウンサイジングによるクオリティの維持が日本の大学の正しい滅び方である、という持説にいささかのこだわりがある。
「塾」になって生き延びるよりは、大学のまま死にたい、と私は思う。