14 Oct

1999-10-14 jeudi

おとといは「教員研修会」。大学冬の時代を神戸女学院大学はどう生き延びて行くか、というシビアな話題で盛り上がった。私の意見はわりと簡単。

(1)学生数を減らし、教職員数を減らし、とりあえず20年前くらいの規模の小さな大学に戻す。
(2)就職市場のニーズなどにあまりふりまわされず、建学の精神を踏まえた「リベラル・アーツ、少人数教育、キリスト教教育、国際人養成」という王道を粛々と歩む。
(3)優秀な学生にはどんどんプラスのインセンティヴを与えて(特待生、奨学金、留学など)同時に少数精鋭的にスパルタ教育を施し、いっぽう、大多数の「ふつうの学生」については、教育達成目標を大胆に下方修正し、水準に見合った技法とコンテンツの教育で「ごりごり」レヴェルアップさせる。つまり、「できる子」と「ふつうの子」のダブル・スタンダードでがんがんゆく。悪しき平等主義は、「できる子」を意気阻喪させ、「ふつうの子」を脱落させるだけである。
(4)日本の伝統文化の教育に資金的、人的リソースを投入する。(武道館をつくる、とか)

というものである。
大学をどんどん小さくしていって、あと125年後には二名の宣教師だけを残して「誰もいなくなった」というようなあり方が私としては非常に「美しい」滅び方だと思うのだが、いかがであろうか。
発想を「いかに生き延びるか」ではなく、「いかにきれいに滅びるか」にシフトしたほうが、面白いアイディアがどんどんでてきそうな気がするけれど・・・「死中に活」というではありませんか。
というようなことをがぶがぶ「呉春」をのみながら臨席にいた松澤学長に切々と申し上げたのであるが、学長はにこにこ笑うばかりであった。
しかし冗談ではなく、「ダウンサイジング」こそ日本のこれからの基本戦略である、と私は思う。
私もこれから年を追うごとに住む家族を減じ、家のサイズを縮め、書籍、家具、衣服を捨て、60歳くらいのときにはすがすがしい無一物となりたいものだと念じているのである。
「書を捨てよ。服も、家具も捨てよ。(椅子も捨てようね、平山さん)」(それで「街にでる」と「ホームレス」だから、街にはでないようにしましょう。)