28 Sep

1999-09-28 mardi

恥ずかしながら NOVA に駅前留学してはや8年となる。もちろんフランス語を習っているのである。ときどき三宮の NOVA で女学院の学生に会う。(このあいだは古田君に会った。やほー)
「あ、先生、こんなところで何をしているんですか?」
「(「こんなところ」はないだろう。自分も来てるくせに)フランス語習いに来てんだよ」
「えー、うっそー、やだー、しんじられなーい」
だってフランス語すぐに忘れちゃうんだよ、私は。ときどきしゃべってないと。
だったら、学校のフランス人の先生と話せばいいじゃないですか。
話題がないんだよ。あの人たちとは。「こんちは、元気? じゃね」の他にあまり話すことがないんだよ。君だって、ただのクラスメートとはそれくらいしか話題がないだろ。同僚だって同じだよ。何年間もいて、ひとことも話したことのない先生だって同僚にいくらもいる。フランス人だからって話がはずむということはないのだよ。
今日の相手はコラ君という青年である。なかなか不思議なことを言う。前はマルセル・デュシャンの写真集をもってきて「どう思う」とたずねられた。かなりの豪華本であるから、きっとデュシャンの愛好者なのだろうと思って、シュールレアリスム美術の意義を私は大いに評価するものであるむねをたどたどしく述べる。20分ばかりひとをしゃべらせておいて、コラ君いわく「ぼく、デュシャンだいきらいなんですよね」
だったら何でデュシャンの本なんか持ってるんだよ。
「すごく嫌いなので、どうしてこんなに嫌いなのか知りたくなって・・・」
けっこう変人である。
今日はフランス語の俗語をもっと覚えろと説教される。
「教授は(私のことをそう呼ぶのである)難しいコトバはたくさん知ってるけど、簡単なコトバを知らないね。」
ぐさ。そうなのである。私は「ゴキブリ」とか「トンボ」とかいうフランス語を言えない。(覚えてもすぐ忘れる)花や木の名前もほとんど知らない。家具とか食器類とか家のなかにある物品名も言えない。
だから「冷蔵庫の中の野菜入れにあるトマトを湯煎して皮むきしてからキューリを輪切りにして、それとちぎったレタスをボールに入れて、そこにオリーブオイルとお酢と塩と胡椒で作ったドレッシングをかけて下さい」というようなことはまるで言えない。その代わりに「記号学的、人類学的方法を適用することによってこのテクストから私たちが引き出し得るであろうところの結論は言語的水準における意識的メッセージはイコノグラフィックな水準における無意識的な視覚イメージによって絶えず裏切られ続けるというものである」というようなことはすらすら言える。
おいらはそういうことを言いたいだけなんだから、俗語なんかいいよ、と弱々しく反論したが、教授はふつうのフランス語も知らないじゃないと、「それなら、メックって知ってる? フリックは? ゴスは? ナナは?」と畳みかけられた。
ふん。