中間選挙を前にして米国では「民主社会主義者」に勢いがある。もともとバーニー・サンダース上院議員やオカシオ=コルテス下院議員が民主社会主義者なのだが、話の筋目はしっかりしているけれど、言いがやや原則主義的で、保守的な人からは敬遠されがちだった。けれども史上初のイスラム系市長ゾーラン・マムダニは生きるのに必要な衣食住に「手が届くこと(アフォーダビリティ)」を最優先政策に掲げて、広範な支持を集めた。家賃の凍結、市バスの無償化、児童ケアの拡充などまさに衣食住にかかわる市民の不全感にピンポイントしたのである。
テキサス州で上院の議席を狙うジェームズ・タラリコは元中学教師、敬虔なクリスチャンで、やはり教育政策、児童ケア、貧困層のための住宅政策など身近の問題に取り組んで支持を集めた。タラリコが共和党の金城湯池たるテキサスで議席を獲得したら歴史的な事件になるだろう。
民主社会主義者たちの特徴は、日本風に言えば「生活者目線」に立つということである。人間の身体の可傷性、脆弱性に着目する。住む家がない、着るものがない、食べるものがない、就学就労機会がない・・・という「よるべなさ」に寄り添うということである。「よるべなさ」、「心細さ」、「頼りなさ」に手を差し伸べることこそ政治の最優先の課題だという考え方はこれまでの民主党では少数派だった。そういう「生々しい不満」を政治資源として活用してきたのはむしろ右派だった。「ラスト・ベルト」でトランプが圧倒的な支持を勝ち得たのは、「見捨てられた人々」の代弁者だと思われたからである。
だが、二期目のトランプはもう「見捨てられた人々」の救済に関心を失い、それよりは危険な外交ゲームやAI軍拡や蓄財に熱中するようになった。この隙間を衝いて民主党左派が「生活者感覚の政治」を展開し、奏功したのである。
私は政治潮流というのは「左派/右派」「保守/革新」「自由主義/強権主義」というカテゴリーで区分するよりも、「人の身体的な痛みを配慮する政治」と「痛みを感知できない政治」で区分した方が民心の動きを説明する上では適切ではないのかと思う。
一期目のトランプは「見捨てられた人々」の生活苦とプライドの喪失という「痛み」に触れ、「人の痛みがわかる政治家」だと思われた。民主党が支持を失ったのは、彼らがワシントンや西海岸の「政治的に正しいエリートたちの政党」であって、下層民の痛みや傷には関心がないと思われたからである。
だから、今民主社会主義者が登場してきて「欲しいものが手の届くところにあるのだけれど、あとちょっとで指先が届かない不全感」というデリケートな欲望を満たすことに注目したというのは着眼として正しい。マムダニの掲げた「アフォーダビリティ」というのは「手が届く」という意味である。欲しい衣食や住環境や雇用や就学機会に「手を伸ばそうとする人」を政治は支援する。
それを「私生活主義」と言い換えてもいい。国益とか国威とか国富とかいう「抽象的な政策」の適否を論ずるより先に国民の身体的でリアルな不全感に反応して欲しいということである。
もちろん「自分さえよければ、国のことはどうでもいい」という利己的な態度を全肯定してしまうと、「公共」は成立しない。私権の制限を受け容れ、私財を供託してくれる市民がいなければ国は持たない。問題は「公私の間の匙加減」なのである。
今の米国民は「国民に寄り添い、その身体的な痛みや心の傷を配慮する政治」を切実に求めている。選挙では民主党が勝つだろう。でも、その先に何が起きるかは今はまだ分からない。
(山形新聞10月22日)
(2026-11-06 10:07)