偲ぶ会に出席できなくて、申し訳ありません。弔辞を代読して頂く失礼をお許しください。
小口勝司君は、僕の高校の時からの友人です。小口君と初めて言葉を交わしたのは、高校一年生の秋です。僕たちは都立日比谷高校という学校で一緒のクラスでした。小口君は九段中学という都心の中学から来た「シティボーイ」で、僕は大田区のはずれの中学から来た「カントリーボーイ」でした。シティボーイたち高校生活にスムーズに適応して、勉強も遊びもスマートにこなしていました。僕は勉強以外に取り得のない少年だったので、彼らの仲間には加わらず、クラスの片隅で目立たないようにしていました。
二学期になって、僕は生徒議会の議員に選ばれました。日比谷高校は行政委員会と生徒議会が自治する二元代表制の学校だったのです。生徒議会は昼休みに開催されます。ある日、議会が長引いて午後の生物の時間に遅刻してしまいました。教室に入ったら席がもうなくて、仕方なく一番後の列に最後の椅子をみつけて座りました。
そうすると、僕よりさらに遅刻して、小口君が教室に入ってきました。そして、僕の隣に座りました。僕が座っていたのが最後の椅子だったはずなのに彼が僕の隣に座れたのは、彼がゴミ箱を引き寄せてその上に自分の鞄を置いて、そこに座ったからです。
僕はそれまで話したことがないクラスメートが隣に座ってきたのでいささか困惑しました。ところが、小口君は平気な顔をして、いきなり「ねえ、内田君、どうして君はそんなに勉強するの?」とストレートな質問をしてきました。僕はそんな根源的なことをそれまで考えたこともなかったので、どぎまぎして、返答に窮して「あの、それは・・・」と言葉に詰まっていたら、先生から「おい、そこ、うるさいぞ。しゃべるなら出ていけ」と叱責されてしまいました。それが僕にとっては高校に入学して初めて先生に怒られた経験だったので、すっかりがっくりしてしまいました。でも、小口君は平気な顔でした。
授業が終わった後も、僕たちはそのままおしゃべりを続けました。そして、僕がアメ横というところに行って「ヒーロー」という中国製のペンを買いたいと話したら、小口君がアメ横ならよく知っているから案内してあげるよと言ってくれました。そして、その翌日に御徒町の駅前で待ち合わせる約束をしました。
翌日、アメ横で買いものを無事に済ませた後、神田明神の境内近くにある小口君の家に案内してもらい、そこで小口君のフルートを聴かせてもらったりしながら、ずっと話し続けました。いったい何をそんなに話すことがあったのかわかりませんが、とにかくその日から僕と小口君は学校に行って、顔を合わせてから別れるまでずっと話し続けるようになりました。文学のこと、政治のこと、恋愛のこと、高校生が話題にしそうなすべてのトピックについて、僕たちはひたすらしゃべり続けました。よくそれだけ話すことがあったと今思うと感心します。
僕は小口君の「内田君はどうしてそんなに勉強するの?」というストレートな質問に対して「東大に行きたいから」というつまらない答えをしたのですが、小口君は重ねて「東大に行ってどうするの?東大を出てどうするの?」と訊いてきました。僕はもうそれには答えられず、ほんとうに自分は何をしたいのか真剣に考えるようになりました。僕がものごとを根源的に考えるようになったのは、実は小口君のおかげなんです。
そして、真剣に考えた末に、僕は「受験勉強には意味がない」という結論に達して、小口君に「だから、高校を辞めて働くことにした」と告げました。小口君はちょっとびっくりしていましたけれど、「内田君がそう思うなら、そうすればいいよ」と言ってくれて、僕の決断を支持してくれました。
僕は実際に高校二年の時に日比谷高校を中退して、家も出て、中卒の労働者になったのです。半年ほど一人暮らしをしていましたが、全くお金がなくなって、ご飯が食べられなくなって、尾羽打ち枯らして、家に戻りました。
家出している間、ぜんぜんお金がなくて、空腹に苦しんでいた期間にも小口君は機会があるごとに僕にご飯をおごってくれました。ある時には小口君から手紙が届き、開いたら千円札が一枚入っていたことがありました。1967年の千円は今の物価感覚で言うと5千円くらいだと思います。なんて親切な友だちなんだろうと思って、泣きそうになりました。
大学時代には小口君と一緒に暮らしていました。小口君のご両親が姫路に転勤になって、空き家になった神田明神の小口家の邸宅に、高校時代の悪友たちが次々と寄宿するようになって、最盛期は4人の学生が住みついていました。二階建て、お風呂も台所も電話も冷暖房も完備で、家賃がただでしたから、たちまち「梁山泊」状態になりました。今思えば、あの時に僕たちが使った電気代も電話代もぜんぶ小口家が払っていたのでした。後から思うと、身が縮む思いがしますが、当時はそんな感謝の気持ちなどかけらもない、ほんとうに自分勝手な若者たちでした。
大学を出てからは、小口君も僕もそれぞれ忙しくなって、二人で会う機会はだんだん少なくなりました。小口君が大学の理事長になった頃からはもうクラス会で顔を合わせるだけくらいになりました。
ある日AERAという雑誌を寝転んで読んでいたら、中ほどのグラビアに「特別企画21世紀大学」というタイアップ記事があって、そこに昭和大学が取り上げられていました。半身を起こして読んでみたら、小口勝司理事長が笑ってこちらを向いていました。それを見て、小口君と過ごした青春の日々を懐かしく思い出して、小口君についての長い文章を書きました。それに「かっちゃん」というタイトルをつけて、僕のブログに掲載しました。
そのブログ記事が何かのはずみで小口君の眼にも止まったのかも知れません。しばらくして小口君から電話があって、「うちの大学の理事になってくれない?」というオファーがありました。毎月小口君と会えるのか、これは楽しそうだ。そう思って毎月神戸から旗の台まで行く仕事を引き受けることにしました。そして、2011年の4月から今日まで、15年間、理事の仕事をしています。
理事としての僕の仕事は、小口理事長が描いている医療系総合大学の「理想」を実現するためのお手伝いをすることです。別にお手伝いできるほどのことはないのです。ただ、時々小口君の話を聴いて、「それ、いいね」と頷くだけなんですけれども、小口君は僕の「それ、いいね」が聴きたかったようでした。
小口君の気性も考え方もよく知っている16歳の時からの友人の同意が得られることで、「自分は正しい判断をしている」ということを確認していたのかも知れません。そういう点で少しだけは大学のお役に立てていたのなら、よいのですが。
小口君はご存じの通りのスポーツマンで、少年の頃からたいへん頑健で、彼が病気で寝付いたというようなことは一緒にいた頃には一度も見た覚えがありません。ですから、大学から「理事長急逝」というメールが届いた時に、小口君が亡くなったという事実がうまく呑み込めませんでした。「いや、小口君がいなくなったら、みんな困るよ」ということしか頭に浮かびませんでした。
少年時代の一時期、僕たちはほんとうに「二人一組」というくらいに仲良くしていました。お互いに自分の「分身」のように思っていました。ですから、それから後ずいぶん時間が経ちましたけれど、会ってしばらく話しているうちに、ふと二人とも高校生に戻って、高校生同士でしゃべっているような不思議な気分になることがありました。
小口君が亡くなって二か月以上経ちました。でも、今も小口君がいなくなったということの意味が僕にはまだよくわかりません。これから喪失感がしだいに深まってくるのか、それとも小口君の不在になじんでくるのか。それもわからない。一つだけわかっているのは、僕が小口君をどういうふうに「供養」しても、小口君はにっこり笑って、「内田君はそれでいいんだよ」と言ってくれるだろうということです。
小口君のご冥福をお祈りします。
2026年11月15日
(2026-11-06 10:09)