雑に生きる

2026-08-31 lundi

 中高生向けに学校教育について一冊本を書いた。どういうタイトルにしようか少し考えてから『雑に生きる』にした。タイトルを決めてから読み直してみたら、たしかに全編を通じて私は中高生たちに「雑に生きる」ことを懇請していた。あまり若い人に向かってそういうことを言う大人はいない。でも、若い人は「雑に生きて」いいんじゃないかと私は思う。
 「雑」の対義語は「純」である。まじりけがない。完全な。単一の要素から成立している。そんなものになってくれと子供に向かって言える親がいるだろうか。私は言えない。
 「雑」は「まじる、まざる、集まる、共に、とりどり」の意である。白川静の『字通』によれば、原義は「様々な色の草木染の布を集めて作った衣。呪飾に用いる」とあった。多彩多色の衣を着して邪気を祓うのが「雑」の本義であるとしたら、まさにそれは私が「雑に生きる」という表現に託した願いそのものである。
 純粋を志向してはならない、集団はできるだけ多様である方がよいと強く訴えた哲学者が20世紀の初めにいた。オルテガ・イ・ガセットである。
 『大衆の叛乱』でオルテガは「大衆」を自分のことを「完全」だと信じ込み、「自分の外にあるものの必要性」を感じず、「自己閉塞の機構」のうちに安住しているものと定義した。「大衆」は知るべきことはもう知っているつもりでいるので、外からの声を聴く気がない。だから、「大衆」が支配的な存在様態である時代に個人は孤立し、原子化し、社会は「たがいに分離し敵意をもつ小集団」に分解する。オルテガはそれを「野蛮」と呼んだ。
 オルテガが「文明」と呼ぶのは、自分とは違うものを受け容れるひろびろとした開放性のことである。共感も理解もできないし、場合によっては利害さえ異にする他者とそれでも共生し得る能力をオルテガは「市民(キビス)」の条件とした。そして、近代市民社会の理想とは「敵と共生し、反対者と共に統治する」ことであると書いた。
 オルテガがそう書いてから100年が経った。それから後もたくさんの戦争があって、たくさんの人が傷つき、殺され、多くの価値あるものが破壊された。どれも自分とは違うものを受け容れることができない心の狭さが生み出した災厄である。戦争という野蛮は「敵と共生する」能力の欠如から生まれる。だから、純粋であることを求めてはならない。
 純粋を目指すと、個人は孤立し、集団は分裂する。異物を排除し、反対者を倒し、敵を殺すことを生きる基本とする者はついに「市民」となることはできない。他者と社会契約を取り結ぶこともできない。市民社会を形成することもできない。だから、できることなら若い人たちには「雑に生きて」欲しいと思う。自分の中にひそむ弱さや利己心や、攻撃性や暴力性や、時には自分の卑しさや醜さをも自分をかたちづくる多彩な要素の一つとして涼しく受け入れて、そのまま身にまとって欲しい。というのも「私は雑な人間です」という名乗りが君を「野蛮」への退行から守ってくれるからである。理解も共感もできない他者との共生を可能にしてくれるからである。
 そんな願いを込めてそのタイトルを選した。
(中日新聞8月24日)