だいぶ前に池澤夏樹さん個人編集の日本文学全集の一巻のために『徒然草』の現代語訳を頼まれたことがある。池澤さんはシリーズの現代語訳について「音読に耐えるもの」という条件だけを掲げていた。その条件に強い作家的な確信を感じたので、ひたすら「音読」だけを念頭に全243段を訳した。難語の後に()で語義を示すこともしなく、脚注もつけなかった。まずすらすらと音読できること、それだけを心がけた。よかったのかどうか、わからない。
それからだいぶ経って、あれでよかったと思うようになった。意味がわからなくても、音読に耐える文章は「皮膚に浸み込む」からである。皮膚に浸み込み、だんだん血肉化する。そして、ある日その文章が、自分の思いを語る言葉として、自分の口を衝いて出てくるということが起きる。思想や感情は出力された時にはじめて理解される。「言ってみたからわかった」ということがあるのだ。入力時点では「まったく意味がわからない」言葉でも、皮膚に浸み込み、身体の中に長く滞留し、発語した時に自分のものになる。
「うまく言葉にできない」ということがある。「ほら、喉元まで出かかっているんだけれど」とか「意あまって言葉足らず」というのはそれである。言いたいことはあるのだが、言い表す適当な言葉が自分の語彙の中にない。その時、ふと指先に「皮膚から浸み込んで、体内に滞留していた他者の言葉」が触れる。藁をもつかむ思いで出力してみたら「なるほど、私はこういう感じのことが言いたかったのか」と気持ちが片づく。
この現象は「眼で読んだ」言葉には起きない。読んだ言葉は頭に入り、理解され、分類され、どこかにファイルされる。「耳で聴いた」文章は違う。それはファイルされず、アーカイブされず、ずっとデスクトップの上に散らばったままだ。
文章を書く人間にとって死活的に重要なのは、「ファイルされた言葉」ではなく、この「デスクトップに散らかっていて、どこにも収納されない言葉」の方だと思う。
そういう話を先日京都の学生たちの前でしてきた。「そういう私自身の言葉はどうなんだろう」と思った。どうなんだろう。
(AERA 1月14日)
(2026-08-30 11:06)