21年前にちくまプリマー新書で『先生はえらい』という本を出した。シリーズの2冊目だった(1冊目は橋本治さんの『ちゃんと話すための敬語の本』)。
担当編集者の吉崎さんに「今の中高生に一番言いたいことは何ですか?」と訊かれたので、少し考えてから「先生はえらい、かな」と答えた。それがそのままタイトルになった。
そのプリマー新書の20周年でまた教育論を書いて欲しいと頼まれた。書き上がるのが1年遅れたけれど、11月くらいには刊行されると思う。
今回もタイトルを考える時に「今の中高生に一番言いたいことは何だろう」と考えた。そして「雑に生きる」だと思った。
生徒たちに向かって「雑に生きろ」と教える先生はたぶんいないと思う。でも、それは生徒たちに向かって「先生はえらい」と言う先生があまりいそうもないのと事情は変わらない。
さまざまな社会制度の起源は闇に消えてわからなくなっているとレヴィ=ストロースは書いた。その通りである。私たちは親族の起源も、言語の起源も、交換の起源も知らない。知らないけれど現にそれは機能している。私たちは制度に遅れて登場し、プレーしながらゲームのルールを習得するのである。
「雑に生きる」は、「純粋に生きろ」という表向きの規範より深いところにある。こちらの方が「暗黙知」に近いと私は思う。
漢字「雑」の語義は「まじる、まざる、集める、集まる、共に、とりどり」。『字通』によれば、原義は草木染の多彩な布の衣を着して呪飾とすることである。多様性には破邪の効果があるということを古人が経験知としていたのだとしたら、洞見と言うべきだろう。
多様多彩であり、異物を包摂し、他者と共生し得る集団は、そうでない集団より生き延びる確率が高い。
「純」は単一の要素から成る、完全でまじりけのないものを指す。自分の子供に向かって「純粋になれ」と告げる親がいるだろうか。いないと思う。そんなものを目指したら、人間的な成長は始まらないことがわかっているからである。
東アジア的な基準によれば、成熟するとは「清濁併せ呑む」器量を得ることである。AIに英訳させたらaccept both good and bad という訳語が出て来た。これは誤訳である。「清濁」というのは程度の差のことであって、善悪のような二項対立ではない。「100%澄んだ水」は存在するかも知れないが「100%濁った水」は存在しない(それは固体である)。「清濁併せ呑む」ことができる人間は清濁の差を気にしない人間のことではない。清濁の差を精密に吟味した上でどう対処するかがわかる人間のことである。
程度の差である。程度の差を吟味し得るだけ繊細でかつ容量の大きな人になって欲しい。それが「雑に生きる」という言葉で私が今中高生に言いたいことである。(8月26日)
(2026-08-28 08:52)