教育について

2026-06-11 jeudi

 いま学校教育に対する強い社会的な圧力を感じる。そのせいで、現場の教員たちは息苦しさと無力感で蝕まれている。それは各地の学校や教員たちの団体からの講演依頼や、このような原稿依頼からわかる。
 私がこれまで教育について語ってきたことはほぼ同じである。学校教育は集団が存続してゆくために必要不可欠の活動である。経済学者の宇沢弘文はそのようなものを「社会的共通資本」と呼んだ。広く自然資源(大気、土壌、森林、河川、海洋など)、社会的インフラ(上下水道、交通網、通信網など)に加えて、司法、医療、学校教育などの制度資本もこれに当たる。宇沢は社会的共通資本の運営についてきびしい条件を課している。それは「政治」と「市場」に関与させてはならない、ということである。
 社会的共通資本は政治的・経済的与件とリンクさせてはならない。政権交代があったの司法判断が変ったとか、株価が暴落したので水道から水が出なくなったとか、津波があったので教育内容が変ったとかいうことはあってはならないという意味である。何が起きても、電車は時刻表通りに発着し、電話をすれば救急車が駆けつけ、学校では昨日と同じように授業が行われることが集団の存続のためには必要だ、ということである。
 福澤諭吉は上野の彰義隊の戦いの時も経済学の原書講読を続けた。「顧みて世間を見れば、徳川の学校は勿論つぶれてしまい、維新政府は学校どころの場合ではない。日本国中いやしくも所を読んでいるところは慶應義塾ばかり」と福沢は誇った(『福翁自伝』)。「世の中如何なる騒動があっても変乱があっても」教育の命脈を断やさないこと。それが学校教育の骨法であると福澤は見切っていた。
 社会的共通資本のかんどころは「専門家によって、専門的知見に基づいて、安定的・恒常的に運営されること」である。社会の変化に即応して変わるものではない。横で矢玉が飛んでいても、平然と書を読むという福澤のやり方が正しいのである。
 どうしてかと言うと、政治と市場は「複雑系」だからである。「北京で蝶がはばたくとカリフォルニアで嵐が起こる」という比喩が伝えるように、政治と経済では、わずかな入力変化で劇的な出力変化がもたらされる。「そういうもの」なのである。だから政治とビジネスでは、プレイヤーたちがあんなに興奮するのである。
 でも、社会的共通資本はそうであってはならない。「惰性が強い」ということが重要なのである。というのは、扱うのがイデオロギーでも資本でもなく、生身の人間だからである。
 生身の人間には生理的・物理的な制約がある。手足も臓器も数が決まっている。適切な栄養補給と睡眠を採らなければ壊れる。はじめは幼く、いずれ衰え、いつかは死ぬ。そういう脆く、弱い人間の身体的限界を勘定に入れて、急激な変化から人間を護ることができるように社会的共通資本は制度設計されなければならない。
 だが、この基本的常識を知らない人間たちがいまの日本では教育制度を起案し、運営している。政治と市場に教育を委ねることが正しいと心から信じている人たちである。
 彼らはさまざまな政治的制約を課して、教員たちの手足を縛り上げ、思考の自由、言論の自由を封じ、その上で学校制度を「市場に丸投げ」して、「あとは野となれ山となれ」でことを済ませようとしている。それが「正しい」と信じている。善意なのである。だから、始末に負えない。
 私の主張は一貫して変わらない。学校教育は専門家である教員に委ねて、その専門的知見に基づいて、政治と市場の干渉を排し、できうるかぎり自律的に運営されるべきだ、ということである。でも、私がそう語ると日本国民のほとんどは驚きあきれる。
 政治的干渉はよくないということまでは同意してくれる人が多いけれども、「どの学校が生き残るべきかどの学校が淘汰されるべきかは市場が決定する」というという命題に反対できる人はほとんど存在しない。
 だが、ほんとうにそうなのだろうか。その人たちはたぶん学校教育をある種の「商品」だと考えている。市場のニーズがある商品は売れる。ニーズのない商品は市場から退場する。単純な理屈だ。でも、教育を商品だと考えると、そもそも公教育というものが存立し得ないことになぜこの人たちは気づかずにいられるのだろう。
 学校教育で人が得る知識や技能がある種の「商品」だとすると、受益者負担の原則により、代価を払える人間だけが教育を受ける権利があるということになる。無償で学校教育を受けるのは、高額の商品をただで配ることに等しい。それは市場経済のルールに違反する。
 事実、19世紀にアメリカで政府が公教育を導入しようとした時に、富裕な納税者たちは強く反対した。「学校教育の受益者は私の知らない子どもたちである。なぜわれわれの税金を他人が受益するために投じなければならないのか? 彼らはいずれ私の子どもたちの競争相手になるかも知れない。なぜ私は私財を投じて自分の子どもの競争相手を育てなければならないのか?」
 教育が商品だと言うのなら、彼らの言い分はもっともである。でも、もしその時に彼らの言い分を容れて、「学校教育は自己負担」という政策を採用していたら、アメリカはその後どうなっていただろう。国民の過半が、字も読めず、四則計算もできず、世界のことも自国のことも何も知らない国になっていた場合、そのような弱国はいずれどこか強国の植民地になる他なかっただろう。あるいはその方が世界は今よりましなものになっていたかも知れないが。
 学校は「教育商品」の売り買いをしているのではない。集団が存続するために、将来集団を支えてくれる「須用の人材」を育てているのである。平たく言えば、「大人」を育てているのである。
 統治者が強権をふるって単一の政治イデオロギーを学校に強要し、議論も反論も許さない集団では、似たような顔つきの「イエスマン」を量産することはできても、知性は枯渇する。そんな集団では、技術的なイノベーションも学術的なブレークスルーも起きない。いずれ衰退する。また、教育が市場に丸投げされている集団では、市場の勝利者たちは誰も集団の存続のことなど配慮しない(彼らはこの集団が「ダメになったら」、個人資産を抱えて「他の集団」に移籍することができるからだ)。
 だから、管理運営は自律的主体たる教育専門家に委ねられるべきである、というのが正論なのである。正論を語るのが少数派で、多数派が血迷っているということはよくある。そして、今の日本はまさにそういう状況なのである。正気を保たなければならない。(5月27日)