中高生からの質問その3

2026-04-08 mercredi

「内田先生のようになりたいのですが、これまでどのような努力をなさってきましたか?」

 僕のようになりたいという人に初めてお会いしました。びっくりです。そう言って頂けるのは大変光栄ですけれど。
 「ロールモデル」という言葉をご存じですか。英語だとrole model と書きます。「特定の役割において手本とされる人」という意味です。漢語には「私淑(ししゅく)」という言葉があります。こちらは『孟子』が出典です。孟子は孔子の100年後くらいの人で、孔子の学統を継いではいますが、間に三人はさまっているので、孔子から直接学んだことはありません。でも、その教えの核心は受け継いでいる。そういう意味です。「私淑」は「私(ひそか)かに淑(よ)しとする」と読みます。
 英語も漢語も「人をモデルに自己造形することは可能だけれども、それは限定的なものである」ということを強調しています。英語の場合は「模倣できるのは役割だけ」、漢語の場合は「模倣できるのは間接的な影響を通じてだけ」といういう含意があります。
 つまり、人を真似することはできるけれども、それは「直接的かつ全面的なもの」ではあり得ないし、あってはならないということをどちらも教えているような気がします。
 どうして直接的・全面的な模倣が禁じられているかというと、「模倣」にはかなり呪術的な、危険な意味もあるからです。
 君たちでも、誰か友だちの言葉づかいを真似したり、身体の動かし方を真似したりすると、そこに「嘲笑」や「攻撃」の含意があることはわかりますよね。
 「どこ行くの?」「どこ行くの?」「いや、オレがお前に訊いてんだよ」「いや、オレがお前に訊いてんだよ」「おい、ふざけんなよ!」「おい、ふざけんなよ!」というような展開があっという間に暴力的な帰結を見ることは誰でもおわかりになりますよね。
 原理は単純なんです。完全な模倣というのは、同じ人間が二人いるということになるからです。
君とそっくり同じ人がもう一人いるというSF的想定をしてみてください。顔も同じ、名前も同じ、考えていることも同じ。でも、家の中にも、クラスの中にも、一人分の席しかない。親友も恋人も一人しかいない。二人でに分けるわけにはゆきません。結果的にどちらか一人だけが生き残るために激しい競争と暴力を生み出す。
 模倣欲望が殺意に変わる恐怖を描いた物語に『氷の微笑』という映画があります。NetflixかAmazon Primeで観られると思いますけれど、観るのはご両親がいないときにしてくださいね。
 そういうわけで、人間社会では模倣についてはかなり精密で厳しいルールがあります。それは「ある程度以上模倣してはいけない」という限度の設定です。
 「おはよう」「あ、おはよう」「いい天気だね」「そうだね。いい天気だね。」「もう春だね」「桜、咲いてきたしね」くらいの、同じ言葉を繰り返しているのだけれど、微妙に言葉づかいを変えるという気遣いがたいせつなんです。
 完全に同じ言葉の繰り返しだと暴力沙汰になるし、「おはよう」「腹減った」「朝ごはん食べなかったの?」「くそ暑いな」「そんな厚着しているからだよ」「金貸して」みたいなのはもうコミュニケーションとさえ言えませんし。
 話があらぬ方向に逸脱しましたけれど、誰かの生き方を真似るというのは、もちろん自己造形上にとても有用なことなんですけれども、節度を持つこともたいせつですという話でした。

 でも、これでは全然質問の答えになっていませんね。僕は今の自分みたいになるためにどんな努力をしてきたのか・・・べつに努力したつもりはないです。気がついたらこんな人間になってしまっていた。僕がこんな人間になった理由の90%以上は僕以外の人から受けた影響です。両親と兄、妻や娘や友人たち、そして二人の偉大な師の影響で「こんな人間」になりました。出会いは選ぶことができません。「影響を受けるために努力する」という表現はあり得ないですからね。
ですから、ご質問へのお答えがあるとすれば、「出会いをたいせつにしてきた」ということになるでしょうか。
 君にもよい出会いがありますように願っています。