観世流の能楽を30年近く稽古している。居合と杖道を稽古し始めた頃に、中世発祥の武芸の術理を理解するためには中世人の身体運用を学ぶ必要があると思ったのがきっかけである。禅か茶の湯か能楽か、三つから選ぶことにした。どれでもよかったのだが、身近に能楽を稽古しているゼミ生が何人かいて、彼女たちからチケットをもらって時折能楽堂に通うようになっていた。
小津安二郎の『晩春』の影響も大きかった。当時娘と二人で、海の見える街の高台に暮らし、大学で教え、時々誰も読んでくれない研究論文を書き、古い映画を観て、古い音楽を聴き、日曜日には能楽堂に通う男になっていた。気づいたら『晩春』の曾宮周吉(笠智衆)みたいな中年男になっていたのである。それで、意を決して、観世流の下川宜長先生に就いて仕舞と謡を習うことにした。
中世日本人の身体運用の理を学ぶという目的はどこまで達成されたかわからない。でも、凱風館の門人たちから何人もが私に続いて入門しているところを見ると、能を稽古すると合気道がうまくなるという信憑はそこそこ広がっているようである。
それより、私が能楽の思いがけない功徳だと思うのは、これが「ジェンダーロール」の学習機会だったということである。
先日社中の練習会が凱風館であり、私も九曲に参加した。そして、気がついたのは女性が主人公という曲が能楽にはほんとうに多いということであった(今頃気がつくのもどうかと思うが)。昨日の番組では『熊野(ゆや)』、『花筐(はながたみ)』、『井筒』、『吉野天人』、『江口』、『杜若(かきつばた)』、『野宮(ののみや)』、『山姥(やまんば)』、『松風』、『羽衣』、『安達原』なんと、全17曲のうち11曲が「女性主人公」の能だった。
出てくるのは恋をする女、恨みを遺して死んだ女、執着を去って成仏する女、山に棲む魔女、殺人鬼、天女...ほとんど「女のカタログ」である。別に先生が作為的に作ったわけではないと思う。曲の難度やポピュラリティや全体のバランスを考えてできた番組に違いない。
私は『野宮』で六条御息所の幽霊として舞い、『井筒』では紀有常の娘の気持ちになって在原業平を慕い、『山姥』と『安達原』で魔女の悲哀と激怒を謡った。謡えばどうしても感情移入してしまう。幽霊になった女たちも、山廻りする山姥も、安達原の鬼女も、それぞれ哀しい事情があってそのような身の上になったのであろう。なんだか気の毒である。
そしてはたと気がついた。能楽は武家の式楽である。柳生宗矩の『兵法家伝書』は新陰流の極意の書だけれど、能の比喩を駆使しているので、能楽を嗜まない人間には意味が分からない箇所が多い。つまり、ひとかどの武士であろうとするなら、前近代の侍たちは「女の気持ち」になる稽古を制度的に強制されていたのである。なんと。
考えてみると能楽には「男の気持ち」を切々と謡ったものがあまりない。多少はあるが、多くは修羅物で、要するに戦って死んだ(のでつらかった)というだけの話である。それ以外に私が稽古した中で「男の気持ち」を謡ったのは『戀之重荷』と『卒都婆小町』(男が出るのは一瞬だけど)くらいしか思い出せない。どちらも欲望剥き出しで、さっぱり共感できない男たちである。
日本の家父長制は「弱い家父長」を理想とする制度であるということを前から論じている。誰も相手にしてくれないけれど、最古の伝統芸能の一つが「女の気持ちに共感すること」を男たちに求めるものであったことは私の持論を多少補強してくれるかも知れない。
(週刊金曜日2月3日)
(2026-02-12 09:00)