最近はどこに行ってもAIの話題になる。大学の先生たちは学生がAIに卒論やレポートを書かせた場合に、それをどう採点するかという難問に直面しているどうしたらいいかと訊かれても、私にもはかばかしい考えはない。教師の側の唯一のよりどころは「この学生にこんなものが書けるわけがない」という主観的印象だけで、それを根拠に落第させることはできない。コピペの卒論は出典を見つければ「盗用」を指摘できるが、AIの書く論文は誰かの「盗用」ではない。オリジナルである。おそらく今年度提出される卒論の80%は(もっとかも知れない)、AIが一部または全部を書いたものになるだろう。こうなると、レポートや論文を宿題に課すこと自体が教育活動として不可能になる。学生たちを教室に閉じ込めて、紙と鉛筆だけ与えて答案を書かせるしかない。
小説ももうAIの書いたものと人間の書いたものと区別がつかなくなったという話は、いくつかの文学賞の審査をしている高橋源一郎さんから聴いた。「それがね、AIの書いたものの方が面白かったりするんだよ」と高橋さんは困っていた。
読者は面白いものが読めればそれでいいかも知れないけれど、作家という商売が成り立たなくなってしまう。私が今書いているような文章はAIなら簡単に書くだろう。問題はそれを「読みたい」と思う読者が果たしているかどうかだ。
いずれ漫画やアニメや写真の業界でもAI代作が始まるだろう(もう始まっている)。だが、映画はどうだろう。これはAIには難しそうな気がする。映画には単一の「オーサー」がいないからだ。
プロデューサー、監督、シナリオライター、俳優、音楽家、美術家、衣装デザイナーなどなどがそれぞれ固有の思いを作品に仮託する。そのせいで映画は複数の要素が絡み合う謎めいたものに仕上がる。物語を秩序立て、前に進め、エンドマークに誘う力に抗って、秩序を覆し、離散させる「反―物語」の力が働き、それが観客の解釈に抵抗する。喉に刺さった小骨のような意味不明の細部のことをロラン・バルトは「映画的なもの」と呼んだ。これをAIは再生できるだろうか。どうかな。(AERA12月24日)
(2026-01-17 08:20)