受験制度について(先生からの質問その7)

2025-11-26 mercredi

『蛍雪時代』の企画で、現場の先生たちからの質問に答えるということをしている。先方のWebで公開する予定なのだが、大事なことなので、これはブログに期間限定であげておく。

 はじめまして。いつも先生の記事を拝見しております。
 現在、私は私学の中高で教員をしておりますが、年々、生徒の基礎学力の低下を感じています。その一方で、どうにかして難関大学に合格しようと「楽な方法」を模索する生徒や保護者に、頭を抱えることも少なくありません。
 時代が変わっても、苦労を乗り越えた先に志望校が待っている――その過程こそが受験の魅力であり、人として成長するための貴重な登竜門であると、私は考えてきました。
 先生は、現在の受験制度や大学入試のあり方をどのようにお考えでしょうか。ご意見を頂戴できましたら幸いです。

 現行の受験制度については、これがよいとはまったく思っていません。僕は大学での最後の役職は入試部長でした。どうやって優秀で、多様な学生を集めることができるかについてはいつも腐心しておりました。
 選抜において一番重要なのは「他ならぬこの大学で学びたい」という受験生の意思だと思います。そういう「帰属意識の高い学生」をどうやって拾い上げるか、それが大学側の工夫のしどころでした。
 AO入試や推薦入試はふつうのペーパーテストによる選抜よりも、そのような個人の意思を汲み上げる入試としては適切であるという考え方があります。でも、長くやっているうちに「自分の学力では一般入試で入れない大学だが、この入試方法なら入れる」という受験生がだんだん増えてきました。そういう学生を優先的に入学させることには特段のメリットがあるとは思われません。あまり技巧的なことをしないで、淡々とペーパーテストを課す方が無難かなと思います。

 大学側としては決して受験生に過度な負担をかける気はありません。でも、実際に入試の成績を見ると、受験生の学力の全体的な経年的に低下してきていることが感じられます。学部学科によっては「このレベルの学力の受験生は入学しても授業についてこれない」ということであえて定員割れを選んだところもあります。そういう困難を抱えている大学は少なくないと思います。
 もうだいぶ前ですが、大手予備校で国語の教師をしている友人から、「毎年同時期に同じ難度の問題を出しているが、平均点が毎年1点ずつ下がっている」と聴いたことがありました。「毎年1点くらいたいしたことないじゃないか」と僕が言ったら「おい、10年で10点だぞ」と言われました。
 偏差値というのは同学齢集団内での相対的な地位を示す数値で、絶対学力とは関係がありません。全員の学力が下がっているなら、今年度偏差値60の受験生は10年前に同じ偏差値だった受験生よりかなり学力が劣っているということになります。でも、その事実は受験が同学齢集団内の相対的優劣を競うものである限り可視化されません。
 だから、「限られた集団内での相対的優劣を競わせる」という仕組みそのものが、受験生たちの知力を高めるためにはあまり有効ではないということがわかります。そういってしまうと、もう受験システムそのものの有効性を否定することになりますけれど、正直言わせてもらうと、そうなんです。もうこんなことは止めた方がいい。

 そのことは、武道の道場で教えているとよくわかります。道場では門人たちの技量の相対的な優劣を査定しませんし、それに言及することもありません。意味がないからです。武道修行の目的は「天下無敵」「梵我一如」といった無限消失点のようなもので、これに到達できる修行者はおりません。でも、目的が明確でなければ修行はできない。だから、そのような「決してたどりつけない目標」を設定して、修行します。
 ですから、修行者同士の相対的優劣を論じることには何の意味もありません。「決してたどりつけない目標をめざす道」を先達に導かれてただ歩む時に、他の修行者よりも何メートル先まで進んだとか、他の修行者より速く歩いたとかいうことには何の意味もない。比較する対象があるとすれば、それは「昨日の自分」だけです。
 でも、この「相対的な優劣を査定しない」システムが教育方法としてはきわめて効果的であることは、長く武道の道場を主宰してきた者として確信をこめて言うことができます。

 そう考えると、同学齢集団内部で相対的な優劣を競わせて、高いスコアをとった者に報奨を与え、スコアの低い者には罰や屈辱感を与えるという仕組みにいったい何の意味があるのか。そもそも教育というは「そんなつまらないもの」なのか、だんだんわからなくなってきます。
 じゃあ、いったいどうしたらいいのかと改めて言われても、よくわかりません。大学というのは「勉強したい人が行くところ」で、別に勉強したくない人は行かなくてもいいんじゃないかと思います。
 さいわいと言うか、AIの発達で、これからあとデスクワークするホワイトカラーの仕事は激減しそうです。代わりに必要となるのは「配管工」とか「とび職」とか「料理人」だそうです(先日ニュースで教えてもらいました)。欧米ではすでにこの「AIでは代替できない仕事ができる人」の方がホワイトカラーよりもずっと高い収入を得るようになっているそうです。
 だったら「勉強がキライ」な人が将来的に高い収入の職業をめざすなら、大学なんて行く必要はありません。それよりは早くから自分が得意な分野で、AIが代替できなそうな仕事を探し出して修業を始めた方がいい(こちらは「修行」じゃなくて、「修業」ですけど)。
 そうなると、大学進学者がさらに減って、大学そのものが淘汰されて、消滅してゆくことになります。でも、それは仕方がないと思います。18歳人口が激増し、大学進学率が高まる時代にどんどん大学を作り、定員を増やしてきたんですから、18歳人口が減り、大学進学率が下がる時代になったら、シュリンクする以外にない。
 それでも、どんな状況になっても、「どうしても教えたいことがある」という人はいますし、「どうしても学びたいことがある」という若者もいます。これは確言できます。教えたい人が身銭を切って学塾を開き、学びたい人が学びに行けばよい。
 日本近代で最も成功した教育機関の一つは松下村塾だということに異論のある方はいないと思います。旧跡をご覧になった方はご存じでしょうけれど、八畳一間です。でも、この吉田松陰の小さな私塾から高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、井上毅、山縣有朋、前原一誠、品川弥二郎、吉田稔麿といった錚々たる人士が生まれた。
 ある教育機関がどれほどレベルの高い教育活動ができるかは、学舎の規模にも予算の多寡にもたいして関係がないということです。
 これからその教育の原点に戻るべきだと僕は思っています。はっきり言って、今の受験制度も大学制度も「非常に出来の悪いシステム」です。複雑だし、コストもかかる割に、子どもたちの知的成熟を支援する上では効率的ではない。
 もう一度、教育の原点に戻って、いったい学校教育とは何のためにあるのか、そこから考えなおすしかないと僕は思っています。