先生たちからの質問その4

2025-11-20 jeudi

 37年間、小学校の教員をして、定年後に高等学校の社会科の常勤講師として採用されて2年目です。採用された高等学校は進学校です。驚いたことが二つあります。
 一つ目は高校生が自分たちの頃と比べて皆、真面目で礼儀正しく人の話をよく聞くことです。
 二つ目は授業が小学校と全く違う指導方法であることです。高度な知識を分かりやすく生徒に教え定着させる高校教員の技術には感服させられます。
 しかし、そこには小学校教員が忙しい日々に研鑽を重ねている子どもの意欲を高めるための、グループ話し合いのさせ方、発表のさせ方、氏名の工夫等などの気配はほとんど見られません。もしかすると小学校のアクティブラーニングは、高校教員から見れば、受験の妨げとしか考えられない、理想のみのお遊びだったのか、と考えてしまうことがあります。私の教員人生は間もなく終了するのでしょうが、こういう矛盾を抱えて教育界を卒業するのかと思うと虚しくなります。どう考えたら良いのかお教えください。よろしくお願いします。

 どうなんでしょう。小学生に対する教育と高校生に対する教育がずいぶん違うものであるのは当たり前だと思います。僕は大学教師としては中等教育を終えてきた学生たちを迎える立場にいたのですが、僕の主な仕事は「中等教育で型にはめられてしまった学生たちを型から解放する」ということでした。定型的な思考、定型的な言葉づかいで、安全な生き方をめざす弱々しい学生たちを脱―洗脳して、「好きに生きていいんだよ」と言い聞かせるのにずいぶん時間と手間をとられました。こんなことなら「小学校を卒業した子どもたちを、そのまま大学に入れた方が話が速い」と思ったこともありました(今でもちょっと思っています)。
 そういう感想を持つくらいに、いまの日本の中等教育は子どもたちを「鋳型にはめる」ことを主務としている。そんな感じがします。
 小学生は元気なんです。率直だし。少し前に小学生相手に講演をしたことがありましたけれど、その時は持ち時間が25分しかなかったので、こんな話をしました。
 「時間あんまりないから、ほんとうにたいせつなことだけ言いますね。それは『この世には決して信用してはいけない人間がいる』ということです。まず、それを覚えておいてください。でも、それだけじゃ足りないので、今から残り時間を使って『信用できない人間の見分け方』を教えます。みんな注意して聴いてね。」
 小学生たち、食い入るように話を聴いてくれました。その後質疑応答でもばんばん質問するし、講演が終わったら校長室まで会いに来て「サインください」と言われました。中高生ではまずこんなリアクションありません。生き生きしていて、とてもいい感じでした。この子たちを大学で教えたいとほんとうに思いました。
 質問者の方は高校生が「真面目で礼儀正しく人の話をよく聞く」と書かれていますけれど、それを読んで、正直僕はちょっと寒気がしました。十代の子どもが「真面目で礼儀正しく人の話をよく聞く」ということは「型にはめられている」ことの効果以外にはあり得ないと思います。
 というのは、もし彼らが示す「ディセンシー」が、彼らが「市民的成熟を遂げた結果」であるしたら、その子たちが世に出たあとあれほど「幼児性」を露呈するはずがないからです。
 たぶん「真面目で礼儀正しく人の話をよく聞く」ふりをしていると「いいこと」があるという功利的判断からそうしているだけでだと思います。「真面目であること」「礼儀正しくすること」「人の話をよく聴くこと」それぞれについて、それが人間的成熟にとってどれほど重要な能力であり、それを獲得することがどれほど困難であるかはなかなかわかりません。わかったらもう立派な「大人」です。高校生の段階ではなかなかわかることではありません。
 特に「礼儀正しくすること(decency)」のたいせつさはいくつか修羅場を踏んで来ないとわかりません(フィリップ・マーロウがつぶやくから響くんです)。
 もちろん、ほんとうにそういう「成熟した高校生」がダマになっている高校がこの世のどこかにはあるかも知れません。世界は広いですからね。そういう高校があったら、行ってみたい。