福島原発事故の東電旧経営陣の責任を追及する株主代表訴訟が行われている。民事の地裁判決では賠償命令が出たが、控訴審では敗訴した。今最高裁で審理中である。
原告団の方から市民からの意見も提出したいので最高裁に意見書を書いて欲しいと頼まれた。素人の意見を書いてもいいのかと訊いたら構わないと言う。そこで「良心」について書いた。
憲法76条は「司法権の帰属と裁判官の独立」について規定している。その第三項には「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」とある。
この「良心」とは何のことか前から気になっていた。
「良心」はかたちあるものではない。だが、司法判断の安定性・信頼性を担保する。それは憲法と法律に準拠することでもないし、過去の判例との整合性に配慮することでもない。そんなことなら「良心」などを動員しなくても、AIがしてくれるだろう。
私見によれば、「良心」とは裁判官一人一人がめざす「理想的な未来」像のことである。「未来の日本はこんなふうであって欲しい」という個人的な切望のことだ。私はそう思う。
だから、「あるべき日本社会」について輪郭のはっきりした、鮮明な像を脳裏に描ける裁判官なら、理非良否の判断において逡巡することはないはずである。よりよき日本社会、よりよき日本人とはいかなるものか、確信があれば判決にためらうことはないはずである。自分の判決がそのような未来社会の実現にどのように資するか、それだけを思量すればいいのだから。
控訴審は東電旧経営者たちを免責した。原発事故を予防するために十分な技術的配慮をしなかったことは「仕方がない」という理路は私にも理解できる。たしかに原発事故は経営者個人に帰責するにはあまりに巨大な事故だったと思う。でも、「システムエラーを個人に帰責しない」という判例によって裁判官たちはいかなる理想社会を引き寄せようとしたのか、いかなるよき日本人を創り出そうとしたのか、私にはそれがよくわからなかった。そう書いた。
(信濃毎日新聞8月29日)
(2025-09-03 09:56)