師と歩んできた14年

2025-08-15 vendredi

 朴東燮(パク・ドンソップ)先生は私の本の韓国語翻訳者・通訳者であり、紹介者・解説者であり、私のただ一人の「学術的な(自称)弟子」である。朴先生のところに韓国のとある人文学雑誌から「内田先生と歩んできた14年」という論題での寄稿依頼があり、そこに寄稿したものをご本人が和訳して送ってくれた。自分について書かれたものをブログに残すのはちょっと面映ゆいけれども、ここに採録する。

師と歩んできた14年、そして未来へ ― ある弟子の見た日韓の新しい風景
 これは、一種の格闘技です
 敬愛してやまない内田樹師匠の韓国での講演会は、今年で実に14年目を迎えました。まるで、毎年恒例の巡礼か、あるいは筋書きのない長期連続ドラマのようです。2012年に始まったこの知の祭典は、ただ回数を重ねただけではありません。その道のりは、正直に言って波瀾万丈、予測不能なハプニングの連続でした。そうです、これは単なる講演会ではないのです。私と内田樹先生、そして韓国社会が一体となって繰り広げる、一種の「格闘技」なのです。
 コロナのパンデミックという見えない敵が現れれば、2020年と21年はオンラインというリングで戦いました。22年には、先生の入国書類にまさかの「待った」がかかり、一時は中止の危機に瀕しました。しかし、多忙を極める先生が奇跡的にスケジュールを調整してくださり、私たちは無事にその年のラウンドを終えることができました。まるで最終ラウンドで逆転KO勝ちを決めたボクサーのように、私たちは安堵のため息をついたものです。
 そして、極めつけは2024年です。先生に予期せぬ癌が見つかりました。予定されていた来韓は当然キャンセル。誰もが先生の健康を案じ、今年の講演は難しいだろうと考えていました。しかし、先生は我々の想像を遥かに超える「格闘家」でした。なんと、癌の手術を翌日に控えた身で、「オンラインでやろう」と言い出したのです。病床から、いや、まさしく決戦前夜のリングサイドから、先生は私たちに語りかけました。その「闘魂」としか言いようのない姿に、私たちは言葉を失い、ただただ胸を熱くしました。こうして、内田樹先生の講演会の歴史には、また一つ、伝説的な一章が刻まれたのです。
 2025年の講演会は、そうした幾多のドラマを経て、これまで以上に感慨深い時間となりました。ある参加者のレビューを借りるなら、それは「ススン(師匠)とジェジャ(弟子)が交わす楽しい対話の饗宴」であり、「過去と現在、未来をつなぎ、韓国と日本を結ぶ知識人の洞察」が満ち溢れた場でした。この14年間の物語を、一人の弟子として、そして誰よりも先生の思想を愛する者として、ここに記してみたいと思います。

マルクス主義者(マルクシスト)ではなく、マルクス的人間(マルクシアン)であれ
「なぜ韓国の人々は、私の話を必要とするのでしょうか?」
 講演の合間に、先生はふとこう漏らすことがあります。その答えの核心に、今年の講演で語られた「マルクス」の読み解き方があったのです。
 内田樹先生は「マルクスを読まずして、19世紀以降の歴史は語れない」と断言します。これは単なる学問的知識の話ではありません。ボルシェビキ革命のような歴史の巨大なうねりから、現代社会に生きる我々自身の立ち位置を理解するまで、マルクスは避けて通れない「OS」のようなものだ、と先生は言われます。
 そして内田樹先生は、韓国社会におけるマルクス読解の「空白」を鋭く指摘しました。それは単に特定の思想が欠けているというレベルの話ではありません。思想の骨格を身体で受け止め、血肉化する「感覚」が失われていることへの警鐘でした。
 ここで先生が提示したのが、「マルクス主義者(Marxiste)」と「マルクス的人間(Marxien)」という鮮やかな区別です。これは、料理評論家と料理人の違いに似ています。マルクス主義者は、マルクスのテキストを引用し、分析し、批評します。いわば、メニューを読んで食材や調理法について高尚な議論をする評論家です。しかし、マルクシアンは違います。彼らはマルクスを「生きます」。自らの厨房で火を使い、汗を流し、食材と格闘しながら、日々料理を「作り出す」料理人そのものです。
 内田樹先生は、ご自身を後者、すなわちマルクスを「身体を通過させた言葉」で語る人間だと位置づけます。難解な概念の森を彷徨わせるのではなく、日常の肌触りや息遣いの中に思想を翻訳します。まるで神々の言葉を人間の言葉に訳すヘルメスのようです。
 私が長年、先生の著作を韓国語に翻訳してきたのも、まさにこの「マルクシアン」としての姿に魅了されたからに他なりません。私が韓国の読者に届けたいのは、書斎に鎮座する哲学者の小難しい概念ではなく、生活の汗と涙で練り上げられた、生きた思想なのです。内田樹先生が韓国でこれほどまでに愛される理由も、きっとそこにあるのでしょう。内田樹先生は哲学を頭でこねくり回すのではなく、独自の「生活論」へと変換し、人生そのもので思想を体現する、稀有な「料理人」なのです。
 マルクスの難解な思想を、まるで硬い岩を砕いて、誰もが味わえる豊かな土壌に変えるかのように、一人の生活者としての生身の身体感覚、肌で感じる実感にまで落とし込んで語られる内田樹先生。そのお姿は、まさに卓越した語り部そのものでした。先生の言葉は、まるで霧深い朝に差し込む一筋の光のように、高校生にさえその思想の核心を鮮やかに見せてくれました。
 内田先生が生涯の師と仰ぎ、探求し続けておられるレヴィナスの思想。それを、あたかも涸れかけた井戸に新たな水脈を掘り当てるように、「なぜ現代日本では成熟が必要なのか」「どうすれば真の『大人』を増やせるのか」という、時代の喉の渇きにも似た切実な問いへと繋げ、蘇らせる。その研究者としての使命感に、私は深く胸を打たれたのです。
 大学教授であった頃、内田先生のこのような文章に触れ、私は強い衝撃を受けました。生からあまりにかけ離れ、徹底的に切り離された「知」を、まるで生きた蝶を、息の詰まるような小さな標本箱に無理やり押し込めるかのように、論文という形式の中に歪めて閉じ込めねばならない。その営みへの深い懐疑の念に駆られ、私はついに大学の教壇を降りました。
 いやはや、この私が大学という象牙の塔とキレイさっぱり縁を切ったのには、もう一つ深い訳があるのです。ユダヤ系マルクス主義心理学者にして、ロシア生まれの天才、レフ・ヴィゴツキー。筑波大学に留学していた若き日、私はこの巨人の思想にどっぷり浸かって研究に明け暮れました。しかし、いざ祖国に帰ってみると、このヴィゴツキーの真髄、その神髄をまともに評価できる研究者が、なんと一人もいやしない! まるで、本物の江戸前寿司を握れる職人が、カニカマしか知らない村に迷い込んでしまったようなものです。
 私が心血を注いで書き上げた論文は、学会に提出するたびに「不採択」の朱印を押され、ゴミ箱へポイされる運命でした。韓国のどの学術雑誌も、私の論文には「うちの店で出す味じゃないんですよ」とでも言いたげな冷たい態度。もちろん、表向きは「ヴィゴツキー研究の第一人者」を自称する研究者もいました。しかし、その方々のヴィゴ-ツキー理解たるや、あまりの浅はかさに、読んでいるこちらが赤面してしまうほど。まるで、ビールの泡だけを舐めて「ビール通」を気取っているようなもので、滑稽ですらありました。
 そもそもの悲劇は1962年に遡ります。ヴィゴツキー最後の主著『思考と言語』が英語に翻訳された時のこと。当時のアメリカは、ご存知の通りマッカーシズムの嵐が吹き荒れ、「マルクス」なんて単語を口にしようものなら「アカの手先め!」と石を投げられる時代。ソ連との冷戦も真っ只中です。そんな状況ですから、アメリカの翻訳者たちはヴィゴツキー思想の背骨であるマルクスとエンゲルスの名前が登場する部分を、断腸の思いで(あるいは喜んで?)ごっそり削ぎ落としてしまったのです。いわば、一番大事なワサビを抜き去ったお寿司、キムチから唐辛子を抜いたようなものでしょう。
 マルクスとエンゲルスの弁証法的唯物論という「激辛スパイス」を効かせて、社会-文化-歴史的心理学という全く新しい料理を創造したヴィゴツキーの真の姿は、こうしてアメリカで骨抜きにされ、人畜無害な「教育万能おじさん」へと変貌を遂げたのでした。その後、アメリカでは「ヴィゴツキーを正しく読み直そうぜ!」という運動が起こり、新しい翻訳が出たり、研究者がロシアに渡って直弟子に教えを請うたりと、今では本来の姿を取り戻しつつあります。世界の研究者たちは、牙を抜かれていない本物のヴィゴツキーと格闘しているのです。
 しかし、我が祖国・大韓民国ときたら! 時計の針が止まっているかのようです。1962年にマルクスとエンゲルスを「去勢」された教育者ヴィゴツキー像が、2025年の今もなお、最新モデルであるかのように鎮座しているのです。まるで、世の中がスマホ全盛の時代に、いまだに黒電話をピカピカに磨いて家宝にしているようなものでしょうか。
 こんなヴィゴツキー理解の不毛地帯、いや、知的砂漠では、私のような研究者が生きる場所は大学ではない。それを痛感した次第です。
 今振り返れば、大学を辞めたことも、その後、独立研究者として執筆と翻訳の道を歩むことになったのも、すべては師の教えである「修行」の一環であったと、改めて気づかされます。
 同じ研究者集団という閉じた円の中で、誰にもができることを他人より少し巧みにこなすだけの、そんな消耗する椅子取りゲームのような競争から降りたとき、私の心と身体には、まるで重い鎧を脱ぎ捨てたかのような解放感が訪れました。
 その「修行」という生き方が凝縮された一冊、それが『武道的思考』です。この本を、まるで大切に育てた種を韓国の地に根付かせたいと願うように、十年以上にわたって様々な出版社に韓国語版の出版を打診し続けましたが、その扉は固く閉ざされたままでした。
 それでも挑戦を続けたのは、この「修行」という灯火が、これからの韓国社会を照らすもう一つの光になりうるという、燃えるような願いがあったからです。そして幸いにも今年、その種はついに芽吹き、こうして素晴らしい韓国の読者という美しい花を咲かせることができたのです。

「修行」という名の、終わらない旅
 内田樹先生が韓国社会に見出すもう一つの「渇き」。それは「武道的思考」の欠如です。そして、その核心にあるのが「修行」という、あまりにも現代的でない、しかし人間にとって根源的な概念です。
 内田樹先生の語る「修行」とは、目的地もゴールも知らされず、ただ師の背中だけを見つめて黙々と歩き続ける旅路のようなものです。合気道であれ、哲学であれ、その本質は変わらないと内田樹先生は言います。始めた動機はいつしか忘れ、終わりは見えず、他者との比較で達成が測られることもありません。
 これは、成果主義、勝敗至上主義、スピードと効率が神とされる現代韓国社会(いや、日本も同様でしょう)から見れば、狂気の沙汰か、非効率の極みのように聞こえるかもしれません。「で、それをやって何になるんですか?」「費用対効果は?」という声が四方八方から飛んできそうです。
 しかし、内田樹先生はここにこそ人間の自己形成の王道があると説きます。武道の最終目標が「天下無敵」であるように、修行の果てには「大悟覚醒」や「解脱」といった、いわば「無限の消失点」へと至る道が開けます。ですが、その道を歩き始めたばかりの初心者には、自分がなぜこの道を歩いているのかさえ分かりません。少なくとも10年は続けないと、その入り口にすら立てないのです。ここに「修行のパラドックス」があります。
 最初の動機が何であれ、それを続けるうちに動機そのものが消え去り、新たな目的や意味が内側から次々と生まれてきます。他者に勝つためではなく、自分自身が変容していくプロセスそのものが目的となります。この「過程」の価値こそ、先生が武道哲学を通して我々に示してくれる、現代社会への最も痛烈なカウンターパンチなのです。

研究者ではなく、弟子になれ ― 「無知の知」ならぬ「無知の喜び」
 今年の講演で、通訳の私の心を最も強く揺さぶったのは、内田樹先生が哲学者エマニュエル・レヴィナスと出会った時の告白でした。
「初めて読んだ時、全く理解できませんでした。一文字も。でも、この人の弟子になりたいと直感的に思ったのです」
 そして内田樹先生は続けました。「理解できなかったのは、知識が足りなかったからではありません。人間として未熟だったからです」。これは、知識の深さを測る尺度が、人間的な成熟度であるという先生の哲学を、これ以上なく明確に示すエピソードでした。
 ここで内田樹先生は、「研究者」と「弟子」の違いを鮮やかに切り分けます。研究者とは、自分が既に持っている知識のフレーム(箱)に、対象となる思想を押し込めて分析する人間です。一方、弟子とは、自分の知識や情報がいかに無力であるかを認め、その箱を自ら叩き壊すことから始める人間です。自分のフレームを破壊し、未知なる他者の世界へ、無防備に飛び込んでいきます。
「知らないことを発見して喜べる人」。それが弟子なのだと内田樹先生は言います。我々の社会は「知らないと不安になる人」で溢れかえっています。しかし、真の学びとは、その逆のベクトルを持ちます。「知らないことがある、なんと素晴らしいことか!」と歓喜する姿勢。それが弟子の特権であり、喜びなのです。
 この文脈で語られた「書斎」の定義もまた、痛快でした。書斎に本を並べるのは、自分がどれだけ物知りであるかを誇示するためではありません。むしろ、「自分はこれだけの本を読んでいない。世界について、人間について、これほどまでに何も知らないのだ」という己の無知と器の小ささを「可視化」するための装置なのです、と。
 無知を恐れるな。無知を喜べ。なんと自由で、解放的な思想でしょうか。競争社会の王道が「敵を打ち負かし、頂点に立つこと」であるならば、内田樹先生の示す自己形成の王道は「競争に背を向けた修行」です。武道が本来、強弱や勝敗、相対的な優劣を問わないように。なぜなら、勝利は時として人間をその場に留まらせ、成長を止めてしまうからです。
 真の修業とは、勝敗に一喜一憂せず、ただひたすらに自分を磨き、内面を深く探求していくプロセスです。他者を打ち負かすことで「私」を作るのではなく、他者と共に歩くことで「私」を育んでいきます。それこそが、先生が韓国社会に、そして私たち一人ひとりに差し出す、もう一つの生き方なのです。

新しい日韓連携の誕生 ― 弟子が架ける橋
 私はこれまで、相当な数の内田樹先生の著作を韓国に紹介してきました。中には、韓国で先に企画・出版され、後に日本語版が出たという、出版業界では極めて珍しい本も二冊あります。私が先生に「書いてください」とお願いし、韓国語版が先に出る。いわば、日本から思想を「輸入」するのではなく、韓国から「発注」したのです。二冊の本が、まるで乾いた大地に降り注いだ恵みの雨のように、あっという間に多くの読者の心を潤したのです。これは本当に嬉しいニュースでした。この二冊のおかげで、先生の他の著作にも好奇心の触手を伸ばす読者が増えたのですから、まさに旱天の慈雨!
 内田先生は冗談めかして、私にこうおっしゃいます。「君こそ、日韓交流のために本当に尽力している。両国から勲章をもらってもおかしくない人物だ」と。もちろん恐縮するばかりですが、この言葉には、私たちの関係性を象徴する真実が隠されているように思います。
 韓国の一研究者が、日本の偉大な研究者(そして今や師となった)と出会い、その薫陶を受けて成長していく。その成長の過程で、ごく自然発生的に、両国の学術と文化の交流が生まれます。一人でも多くの韓国の読者に、先生の生きた思想を届けたいという弟子の切なる願い。そして、内田樹先生の著作をまず韓国語版で読み、それをきっかけに先生の思想に触れたという、日本の韓国語学習者たちの存在。彼らは、いわば「逆輸入」の形で、韓国語を通して内田樹先生と出会ったのです。
 これは、国家や政治が主導する交流とは全く違う、もっと人間的で、血の通った、新しい「日韓連携」の誕生ではないでしょうか。
 内田樹先生は講演の最後にこう結論づけました。自分は何か目新しい「外来の文物」を韓国に伝えているのではない。むしろ、「本来、韓国にあったはずの物語」を、その深い場所から掘り起こし、光を当てる役割なのです、と。
 私たちのアーカイブの中で眠っていた思考の感覚を、もう一度揺り動かし、目覚めさせること。それこそが、今、内田樹先生が韓国で必要とされる理由であり、私たちが目指すべき「修行の哲学」なのだと思います。
 解読不能な時代に道を見失った読者たちへ、先生は「歩く哲学」を提示します。成果や効率だけを崇拝する社会の中で、本当に大切なのは、終わりのない学びへとただ歩み続ける姿勢そのものである、と。
 講演会が終わり、会場を後にします。先生の眼差しと表情が、私の心に深い残像を結びます。それは、老年のそれではなく、未知なるものへの好奇心に満ちた「青春の瞳」でした。
 この14年間のドラマは、まだ終わりません。きっと来年も、再来年も、予測不能な新しい章が私たちを待っているでしょう。その道を、私は一人の弟子として、これからも師の背中を追いかけながら、歩き続けていきたいと思います。