政治家の品格が落ちた。
昔はとりあえず公人は外形的には「一般人よりも知性的で、良識を的な人」のふりをしていた。中身はさておき「ふり」だけはしていた。でも、ある時期から、そういう「ふり」を止めて、没論理的で、無教養で、非常識な人が有権者から選好されるようになった。
そういう人を支持する有権者に理由を訊いたことがある。「自分とケミストリーが似ているから」というのがその答えだった。
chemistry の原義は「化学」だが、「性格、気質、親近感、共感、相性」という意味がある。親しみを持てるかどうかが公人選出の理由になるなら、公人が一般人よりも公正であったり、抑制的であったりする必要はない。人によっては自分と同じくらいに利己的で、偏狭で、攻撃的である人間の方が自分を「政治的に代表する」にふさわしい人だと考えるだろう。
これが共感に基づく政治の落とし穴である。だから、政治は共感に基づいてはならないのである。
いや、もちろん理解し、共感できる人物を自分たちの代表に選ぶことは止められない。でも、それだけでは国は統治できない。一般人と道義性において知性において同レベルの人間だけでは国は統治できない。私利私欲や私的願望の実現を後回しにして公的利益を優先的に配慮する人間が統治のためには要る。
福沢諭吉はかつてその消息を「痩せ我慢」と呼んだ。
「立国は私なり、公に非ざるなり」と言うのは、身銭を切って、痩せ我慢をして公を私に優先させる人間がいて初めて立国は成るという意味である。公は自然物のように存在するわけではない。私が痩せ我慢して創り上げるのである。
「痩せ我慢の一主義は固より人の私情に出る」ものだが、「所謂国家なるものを目的に定めてこれを維持保存せんとする者は、この主義に由らざるはなし」と福沢は断言する。
それだけの覚悟を持つ政治家がいまいくたりいるだろうか。
(信濃毎日新聞8月8日)
(2025-08-12 09:24)