呼吸法について

2025-08-12 mardi

『月刊秘伝』が呼吸法の特集を組んだ。合気道の呼吸法というお題を頂いたので、凱風館ではどんな呼吸法の稽古をしているのかを書いた。 

 この特集では呼吸法の専門家の方たちがそれぞれに深い知見を語っておられると思うので、私は一修行者として、呼吸法について自得したことを報告することにとどめておきたい。
 呼吸について知っておくべき最も基本的なことは、これが人間の生命活動のうちで意識的に操作できる唯一のものだということである。
 消化器系の活動や循環器系の活動や内分泌系の活動は意識では操作できない。もちろん強いストレスで胃が縮むとか、不安で心臓の鼓動が速まるというような「相関関係」はあるけれども、意識的に「胃を縮める」とか「心臓の鼓動を調整する」ということは(ヨガの達人などを除けば)ふつうの人にはできない。でも、呼吸は違う。
 呼吸は私たちの意思にかかわりなく行われる。だから眠っていても、意識を失っていても、呼吸は止まらない(止まると死ぬ)。でも、私たちは意識的に呼吸を深くしたり浅くしたり、長くしたり短くしたりすることができる。これは他の生命活動にはないことである。呼吸だけが生きるために絶対に必要な活動でありながら、人為によって操作できる。言い換えると、呼吸は人為の及ばぬ生命活動と意識的な行動がまじりあう、「生命活動の汽水域」のようなものなのである。
 だから、呼吸を介して私たちは生命活動の深部に触れることができる。呼吸法は「生命活動の深層にアクセスする」ために私たちに与えられた唯一の方法である。だからこそ、古来多くの武人や宗教家が呼吸法を重く見てきた。私はそう理解している。

 呼吸法についてこれまで聴いた話で一番興味深かったのは、曹洞宗の禅僧である南直哉師から伺った話である。対談の席で、私は禅の素人として「魔境」について質問した。
「魔境」とは禅修行の過程で経験される幻覚や神秘体験のことである。修行の浅い者はこれらの体験を「悟りを得た」というふうに思い込んでしまうことがある。南さんも魔境を経験したことがあると言った。そういう場合にどう対処するのですかとさらに問うたところ、南さんは「呼吸を数えるのです」と教えてくれた。「数息観(すそくかん)」である。
 どれほどリアルな幻覚幻聴があっても、注意深く身体の内面を覗くと、呼吸だけは通常通りに規則的に行われている。だから、それを数える。呼吸を数えているうちに「梯子段を上ってゆくように」魔境から脱して、正常な意識状態に戻るのだそうである。意識の混濁から逃れて、生命活動の「本道」に戻るために呼吸を数える。これは呼吸が生命活動と意識活動を架橋するただ一つの回路であるがゆえに選ばれた行法だろうと思う。
 
 私の道場凱風館では、合気道の稽古を始める前にかなり長い時間をかけて呼吸法を行う。私が行うのは、一九会で行われている禊教の「オキナガ」と天風会で行われている「呼吸操練」とヨガの「集気(あるいは収気)の法」と神道の「天の鳥船(舟漕ぎ運動とも言う)」である。
 それぞれ呼吸法としての目的は違う(身体実感としてわかる)。「オキナガ」は横隔膜を大きく動かして肺の機能を向上させる。呼吸操練はそれぞれ活性化する部位を異にする10種の呼吸法を連続して行う。「集気の法」は中丹田と下丹田に気を集めることで、丹田(神経叢)への意識を深める。「天の鳥船」は天を進む舟を漕ぐ神々の船漕ぎ動作を模している(動作そのものは「ガレー船の漕ぎ手」と変わらないが、自分たちの自発的意思で漕いでいるので、笑顔である)。短時間のうちに全身の血流がよくなり、体温が上がる。滝行の前にもこれを行う。
 若いころはこの時間が退屈で、早く体を動かしたいと思っていたが、長く稽古していると、呼吸法がどれほど身体能力に影響するかがわかってきた。その結果、呼吸法に割く時間が次第に長くなってきた。

 私の合気道の師である多田宏先生(合気会師範、合気道九段)は呼吸法を重く見られている。先般、私がすい臓がんになったことを電話でご報告した時も、即座に「内田君は呼吸法をしているか」と訊かれた。「はい」と胸を張って答えた。呼吸法をしてもがんには罹る。でも、切除した後の回復が早くて主治医を驚かせた。
「呼吸法は生きる知恵と力を高める」と多田先生は繰り返し教えらえている。弟子の私は愚直に教えに従っている。「生きる知恵」が高まったかどうかはわからないが、「生きる力」は確かに高まっていると思う。心臓弁膜症を患って、思春期まで激しい運動を禁止されていた虚弱児がこうして古希を過ぎてまだ武道家として生きていられるのは呼吸法を行ってきたからだろうと思う。もちろん「呼吸法をやっていないせいで、早く死んだ私」との比較ができないので、「呼吸法は生きる力を高める」という言明は科学的なものではあり得ないのだが。
(7月14日)