『そのうちなんとかなるだろう』新書版まえがき

2025-08-12 mardi

 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 本書は2019年にマガジンハウスから単行本で出た僕の「履歴書」の新書化です。
「私の履歴書」というのはふつう功成り名遂げた人が往時を回顧して書くもので、僕みたいな若造が書くものじゃないとずっと思っていましたが、気が付けばとうに古希を超えて、もうすぐ後期高齢者です。3年前に右膝の人工関節手術をし、去年はすい臓がんの手術をしました、身体のあちこちが「そろそろ耐用年数来てます」とアラームを鳴らして、「おしまい」へのカウントダウンがもう始まっています。
 たしかに今のうちに書いておかないと、もう少しすると「昔のことは全部忘れちゃった」ということにもなりかねません。現に、この本は出たのが6年前、素材はそれよりさらに前の別の媒体で行ったロングインタビューですので、そこで「思い出されていること」の中に今の僕は思い出すことができないことがいくつも含まれています。ほんとに。
 自分で書いた「履歴書」なのに今回ゲラを見ながら「へえ、そうだったんだ。オレはそんなことを考えていたのか(知らなかった)」と驚きあきれることが何度もありました。これは「内田樹が68歳の時に書いた『私の履歴書』」という限定付きでお読みください(ですから、本書中に出てくる数字的なデータはすべて2019年時点のものです)。
 もし今書いたら、かなり違う「私の履歴書」になると思います。この時にはまだ覚えていたけれど、今は忘れてしまったこともあるし、逆に、この時には脳裏に浮かばなかったけれど、今は思い出したこともある。そういうものですよね、人間の記憶というのは。
 補助線を一つ引くだけで、それまで記憶の奥底に眠っていて一度も前景化したことのない出来事がありありと思い出されるということがあります。例えば、この履歴書を書いている時期にはあまり気にしていなかったのですが、最近気が付いたのは、僕は「人間が雑だ」ということです。「まえがき」として、その話をちょっとしていいですか。
 診断を下してくださったのは釈徹宗先生です。
 平川克実君と釈先生と三人でおしゃべりしている時に、平川君と僕は65年近く前から一度も喧嘩したことがない仲の良い親友同士なんだけれど、実はお互いに相手のことをよく知らないんだよねと二人でげらげら笑ったことがありました。どうして、それでもこんなに仲良くしてられるんだろうねと言ったら、釈先生に「それはお二人とも人間が雑だからです」とすっぱり言われました。
なるほど。
 そうか、そうだったのか。
 釈先生にそう言われた瞬間に、子どもの頃から最近までのさまざまな出来事が「人間が雑であるゆえに起きたこと」としてありありと前景化してきました。そうか、オレは「雑な男」だったんだ。だから子どもの時にプラモデルが作れなくて、半襟の縫い目がでたらめで、バイクをいじれば壊し、オーディオをいじれば壊し、パソコンをいじれば壊していたのか・・・すべてが繋がった。「ある雑な男の生涯」というサブタイトルをつけたら、きっともう一つ別の「私の履歴書」が書けるかも知れないなと思いました。
 本書は「直感だけに従って、もののはずみでふらふら生きてきた」という傾向にフォーカスした「私の履歴書」です。でも、僕の人格的な別の要素(例えば、「おばさん的」であるとか、「異常にせっかち」であるとか「散歩ができない」とか)を強調して、それにふさわしい事例だけを集中的に集めたら、それはそれでまたかなり違った人間の自伝が書けそうな気がします。
「散歩ができない」というのはほんとうなんです。したことないんです。歩く時は、目的地に向かって、最短距離を最短時間で踏破することしか考えない。春風にさそわれてふらりとドライブをするとか、夕陽に向かってひたすらバイクを走らせるとか...そういうことは一度もしたことがないんです。ほんとに。ウインドー・ショッピングというのもしたことがありません。買い物はどんなジャンルでもだいたい5分で終わります。自動車のディーラーの前を原付で走っていて、かっこいい車があったので、降りて「これください」と言ったことがあります(信用してもらえませんでした)。美味を求めて街をさまようとか、紅灯の巷に脂粉の匂いにつられてとか、そういうこともしないです。女性のいるバーには一度しか入ったことがありません(半世紀くらい前に家庭教師をしていたうちのお父さんに連れていってもらったことがありますが、その一回だけ)。
 こうやって見ると、かなり変わり者ですよね。この「異常なせっかちで、道草を食うということができない」という傾向だけにフォーカスして「日本一のイラチ男」という「私の履歴書」を書くこともできそうです。
 そういえば精神科医の名越康文先生からも「サイコパス」という診断を受けたことがありました。わりとあっさりと「だって、内田さんて共感性ないでしょう」と言われました。他人の感情にまったく共感できないのだけれど、他人の感情表現についてはそれなりの「データベース」を準備してあるので、それらしい対応ができる。でも、それは他人の感情に「共感」しているのではなくて、単に情報として「理解」しているだけなんですよ、と。
 そう言われてみると、確かにその通りです。若い頃から「情が薄い」「冷たい」「思いやりがない」とガールフレンドたちから文句を言われ続けながらも、「内田君は頼んだことはしてくれる」という点は認められていたのは、「言わないと分からないけれど、言えばわかる」人間だったからなんですね。なるほど。だったら、「親切なサイコパス」というタイトルで「私の履歴書」を書くこともできそうです。
 まあ、そうやって人格特性のどこに照明を当てるかで、「私の履歴書」のテイストもずいぶん変わるということです。本書は上に書きましたように、「直感に従ってやりたいことだけをやり、やりたくないことはやらずに生きてきた」という僕の特性をフィーチャーした「私の履歴書」です。ですから、これを読んだだけで「内田樹という人間のことがわかった」とか思わないでくださいね(思う読者はいないと思いますが)。
 では、最後までどうぞごゆっくりお読みください。
(8月11日)