敗戦から80年

2025-08-09 samedi

 敗戦後80年が経った。敗戦の記憶が遠ざかるにつれて、敗戦が日本人にもたらした生々しい知見が失われつつある。それは何だろうか。歴史資料を渉猟するには及ばない。私が思い出すのは小津安二郎の映画の中の二つの台詞である。
 一つは『彼岸花』で佐分利信がつぶやく言葉。芦ノ湖のほとりで、妻(田中絹代)が戦時中防空壕で一家四人必死に抱き合っていた時を思い出して、往時を懐かしむのを遮って、夫(佐分利信)が吐き捨てるように言った言葉である。「俺はあの時分が一番厭だった。物はないし、つまらん奴が威張っているしねえ。」
 もう一つは『秋刀魚の味』。かつての駆逐艦艦長(笠智衆)が戦争を回顧して「負けてよかったじゃないか」と微笑する。それを聴いて一瞬怪訝な顔をしたかつての水兵(加東大介)が「そうですか。そうかも知れねえな。馬鹿な野郎が威張らなくなっただけでもね。いや、艦長、あんたのことじゃありませんよ」と応じる。
 たぶんこれが戦争が終わって15年ほど経った時の小津安二郎の実感であり、この映画を観た観客たちほとんどにとっての実感であったと思う。戦争の記憶は、小津の理解では、大企業のサラリーマンであっても、駆逐艦の乗員であっても、どちらも同じなのだ。前線で戦っていた兵士も銃後の勤労者も、戦争とは「つまらん奴が威張っていた日々」だということである。

 つまらん奴が国の舵取りをし、政策を立て、軍略を策し、それを国民に押し付け、従わない者に非道なふるまいをした。「上意下達」のすべてのレベルで、「上が馬鹿な奴だった」という印象を残したのが戦争の実相である。それが敗戦から15年経ち、さまざまな苦労を味わった末にようやく生活が少し落ち着いた時点での庶民の戦争についての回想であった。
 むろん、かかる「庶民の回想」が歴史的事実を正確に映し出していると私は言っているわけではない。けれども、戦時を生きた人たちが、その時代を回顧した時に、まず出てきたのが「あの頃は馬鹿が威張っていた」という妙に生々しい手ざわりのする言葉であったということを私たちは忘れてはならないと思う。
 
 私の父は明治45年生まれ、敗戦の年に33歳だった。満州事変の年に中国に渡り、大陸で15年を過ごし敗戦時点では、北京で親日派の中国人を組織する宣撫活動に関わっていた。戦時中、日本人が中国で何をしてきたのか父は熟知していたし、敗戦の混乱の中で、それまで軍や民間の要路にいた人間がどんなふるまいをしたのかもよく知っていた。
 私が10歳くらいの時、父が改まった様子でこう教えたことがある。それは「人を見る時に、その外見に胡麻化されるな。その人が哲学を持っているかどうかを見ろ。哲学を持たない人間は信用してはならない」というものだった。
 私は「哲学」という単語くらいは知っていたけれども、それが何を意味するについて実感の裏づけを持たなかった。それでも、父が言いたいことは何となくわかった。
 一つは「地位や学歴や財産のような外形を基準に人を見てはいけない」ということであり、もう一つは「自己規範を以て自分を律している人間は信じるに足る」ということだった。
 私は幼かったが、謹厳な父が私の眼をまっすぐに見て伝えたこの教えを久しく自戒としてきた。それから数十年、人を見る時に、この時の父の教えを忘れたことはない。

 小津安二郎も戦争とは何か軍隊とは何かをよく知っていた。20歳の時に召集されて1年後に伍長で除隊した。33歳の時にふたたび召集されて2年間中国を転戦して軍曹で除隊。39歳の時には軍報道部映画班員としてシンガポールに派遣され、2年後にそこで敗戦を迎えた。軍隊というのがどういう組織で、戦争というのがどんなものかを小津は熟知していた。その経験が「馬鹿な野郎が威張っている」という一言に集約されていたと私は思う。
 小津は戦争そのものを一篇の不出来な「劇」のようなものだと考えていた。それは『秋刀魚の味』の最後の場面で、笠智衆が酔余の勢いで歌う『軍艦マーチ』から知れる。「守るも攻めるも鉄(くろがね)の・・・か。浮かべる城ぞ頼みなる・・・か」と吐き捨てるような「か」の破裂音がこの歌詞が語る物語に一つの「額縁」を付けている。
「額縁」というのは、「この内側にあるのは絵です。現実ではありません」という告知機能のことである。前に養老孟司先生にそう教わった。ヨーロッパの街ではどこでも最も壮麗な建物は教会と劇場だがその理由を知っているかと養老先生に問われたことがある。分かりませんと答えたら、「あれは額縁なんだ。この中で話されていることは全部嘘だということを人々に分からせるために人はあえてあのようなこけおどしの建物を作るのだ」と教えて頂いた。
 笠智衆が歌詞の「引用符」として付け加えた「か」という破裂音は職業軍人として生きた彼の戦争記憶のすべてを囲む「額縁」なのだと思う。「ここに歌われたことは全部嘘だった」という総括を語った「か」なのである。 
 
 敗戦後80年経った今、私たちが戦争を経験した先人たちが残した知見として、繰り返し思い出すべきことは、戦争とは要するに「馬鹿なやつが威張る」状況のことであり、戦争の時に大声で語られる言葉は「全部嘘だ」ということである。そこに尽くされる。
 だから、もし戦争を始めようとする人間がいたら、そいつは「威張りたい馬鹿」であり、彼らが大声で言い立てることは「全部嘘」だということを私たちはもう一度常識に登録しなければならない。
 1950年生まれの私の記憶する限り、かなり長い間それは「市民的常識」だった。でも、80年代になって戦中派が社会の前面からしだいに姿を消し、彼らの言葉がメディアから消え、やがて20世紀の終わりと共にほぼ全員が鬼籍に入ると、その「常識」も忘れられた。そして、戦争を知っている世代が死ぬのを待っていたかのように「賢い戦争指導者」や「真率な兵士」の姿を妄想する人たち、「額縁の中の嘘」を大真面目に吹聴してまわる人たちが出てきた。戦中派であれば「馬鹿」の一言で一蹴したはずの徒輩が、メディアの寵児になり、ある種の言論の旗手となり、ついには国政の場で議席を持つまでになった。泉下の戦中派がこれを見たら、「馬鹿なやつが二度と威張らない仕組み」をもう少ししっかりと作り込んでおけばよかったと慨嘆するだろう。
 でも、過ぎたことを悔いても仕方がない。戦中派がし終えることができなかった仕事は、親しく彼らの謦咳に接した私たちの世代が引き継がなければならない。その世代ももう後期高齢者となって、世論形成にかかわれる時間も残りいくばくも残されていない。私たちが戦中派から託されたのは端的に「戦争というのは馬鹿が威張る状況のことである」という言明である。それを次の世代に袖をつかんででも、伝え続けるしかない。