『テクノ封建制』と中世への退行

2025-05-02 vendredi

 ヤニス・バルファキスの『テクノ封建制』(集英社)の書評を頼まれた。書評と言ってもオンラインで行われた編集者、ライターとの対談を文字起こしするだけである。でも、とても興味深い本だったので、1時間ほど話した。
 バルファキスは2015年のギリシャ経済危機の時に財務大臣に招かれて経済の立て直しに尽力した経済学者である。現場を熟知している人ならではの分析には説得力があった。
 バルファキスによれば、ネット上のプラットフォームを独占的に所有している企業(アップル、グーグル、アマゾンなどなど)が今や「資本主義から抜け出してまったく新しい支配階級」を形成している。彼らはもう質が高く安価な製品を市場に提供して、競合他社を制してシェアを増やすという在来のビジネスモデルを採用しない。そうではなくて、誰も競争相手のいない「ブルーオーシャン」に乗り出して、一気に市場を独占するのである。そして、その「封土」にやってくるユーザーたちから「地代」を徴収する。
 バルファキスはこの経済システムを「テクノ封建制」と呼ぶ。「資本主義が変異して最終的に行き着いた姿」である。これまでは資本家がプロレタリアートの労働力から剰余価値を収奪していたが今は違う。支配者は「クラウド領主」というものになった。彼らの封土は地上ではなく、雲の上にある。中世の封建制のときのように領主たちはユーザーすなわち「クラウド農奴」たちから「地代(レント)」を徴収する。
 このモデルの創始者はスティーブ・ジョズ。彼はiPhoneによって世界最初の「クラウド領主」というものになった。アップルの資源を社外のエンジニアに無料で利用させて彼らが作ったアプリを「ストア」で販売したのである。グーグルはアップルを追って同じやり方で「封土」を二分することになったが、他のメーカー(ノキアやソニー)は「自社ストア」を持つというアイディアを思いつかず、「クラウド領主」たちが何億というユーザーすなわち「クラウド農奴」から「デジタル地代」を徴収しているのを横目で見ながら製品を作り続ける「クラウド封臣」という身分に甘んじることになった。以来、全世界のネットユーザーたちは携帯を見るたびに「クラウド領主」たちに「クラウド・レント」を払い続けているのである。
 利潤に代わって地代が経済活動を駆動する経済システムはもう資本主義ではない。「テクノ封建制」と呼ぶのが適切だろうとバルファキスは書く。そうかも知れない。
 このあとクラウド領主たちはますます富裕になり、クラウド封臣たちはモノづくりにいそしみ、クラウド農奴たちはひたすら収奪されるという気鬱な未来をバルファキスは予測している。
 確かに、ドナルド・トランプやイーロン・マスクの「王様気取り」を見ていると世界は近代から中世に退行しているような気がしてきた。
 この流れに掉さす人たちが選好するメタファーが「レッド・ピル」である。『マトリックス』でモーフィアスがネオに選択を迫る錠剤のことだ。青い錠剤を飲めばマトリックスが紡ぐ夢の中に戻れる。赤い錠剤を飲めば冷厳な現実に目覚める。ピル一個で適切な現実認識が得られるという比喩には「人間は経験を通じて成熟する」という発想が欠如している。錠剤の選択一つで一瞬のうちに世界の実相が開示されるというのは、キリスト教における「回心」に近い。
 東アジアにおいては、伝統的に自己陶冶というのは「修行を通じて連続的に自己刷新を遂げること」であり、「錠剤一つで別人になれる」という発想とは無縁である。
 そういえば新反動主義の「聖典」とされるピーター・ティールの『Zero to One』もタイトルから知れるように「0か1か」の二者択一であり、「その間」は存在することを許されない。
 青か赤か、0か1かを突き付けて、その「踏み絵」で人間を二種類に類別して、片方を「捨てる」という発想のうちに私は「クラウド封建制」を囃し立てる人たちの知的・倫理的退廃の徴を見るのだが、これは杞憂だろうか。
(山形新聞3月19日)