『日本型コミューン主義の擁護と顕彰 権藤成卿の人と思想』はじめに

2025-04-15 mardi

『月刊日本』から、権藤成卿の『君民共治論』が復刻されることになったので、その「解説」を書いて欲しいという不思議なオファーを受けた。「不思議」だと思った理由は二つあって、「どうして今ごろになって権藤成卿を復刻するのか?」ということと、「どうして私にそんな仕事を頼むのか?」ということであった。
 後の方の理由は何となくわかった。おそらく担当編集者の杉原悠人君が何度か私の書斎を訪れているうちに、書架に権藤成卿や頭山満や内田良平や北一輝や大川周明の本や研究書が並んでいるのを見て、日本の右翼思想に興味がある人だと思ったのだろう。この推理は正しい。
 私はこれまで日本の右翼思想についてまとまったものを書いたことがない。だから、ふつうの人は私の興味がそこにあることを知らない。でも、書斎を訪れた人は本の背表紙を見て、私の興味の布置を窺い知ることができる。明治の思想家たちについての書物は私の書架の一番近く、手がすぐに届くところに配架されている(私の専門であるはずのフランス文学や哲学の方がずっと奥に追いやられている)。
 その配架はたぶんに無意識的なものだと思う。どうして、そんな本を私は手元に置いておきたがるのか。それは、おそらくこの思想家・活動家たちのことを決して忘れてはならないと久しく自分に言い聞かせてきたからだと思う。彼らのことを決して忘れてはならない。彼らのことを忘れたときに、私は必ずや「日本的情況に足をすくわれる」だろう。そのことについては深い確信があった。
 権藤成卿の思想の今日的な意義にたどりつくために、いささか長い迂回になるけれども、まず少しその話をしたい。

 私は全共闘運動の世代に属する。十代の終わりごろのことだから、その時代に取り憑いていた熱狂をよく覚えている。そして、その時にすでにその政治運動がある古い政治思想の何度かの甦り、ある種の「先祖返り」であることに気づいていた。
 1968年の米空母エンタープライズ号の佐世保寄港の時、私たちははじめて三派系全学連という人々の組織的な闘争の画像を見ることができた。寄港阻止闘争に結集した学生たちは、党派名を大書したヘルメットをかぶり、ゲバ棒と称された六尺ほどの棒を手に、赤や黒の巨大な自治会旗を掲げていた。そして、世界最大の米空母に向かって、ほとんど徒手空拳で「打ち払い」を果たそうとしていた。
 私はその映像をテレビのニュースで見たときに胸を衝かれた。その時の震えるような感動を私はまだ覚えている。ヘルメットは「兜」で、ゲバ棒は「槍」で、自治会旗は「旗指物」に見立てられていたからだ。学生たちがそのようなビジュアルを選択したのはむろん無意識的なことである。だが、それは「黒船来航」の報を聴いて浦賀に駆けつけた侍たちの姿を連想させずにはおかなかった。
 マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』にこう書いている。

「人間は自分自身の歴史をつくるが、自分が選んだ状況下で思うように歴史をつくるのではなく、手近にある、与えられ、過去から伝えられた状況下でそうするのである。死滅したすべての世代の伝統が、生きている者たちの脳髄に夢魔のようにのしかかっているのである。そして、生きている者たちは、ちょうど自分自身と事態を変革し、いまだなかったものを創り出すことに専念しているように見える時に、まさにそのような革命的危機の時期に、不安げに過去の亡霊たちを呼び出して助けを求め、その名前や闘いのスローガンや衣装を借用し、そうした由緒ある扮装、そうした借りものの言葉で新しい世界史の場面を演じるのである。」(カール・マルクス、『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』、横張誠訳、筑摩書房、2005年、4頁)
 
 この文章をマルクス主義者を自認していたはずの三派系全学連の活動家たちはおそらく何度も目にしていたはずである。繰り返し読み、読書会では片言隻語の語義をめぐってはげしい議論を交わしてきたはずなのに、彼らはいま自分たちがまさに「過去の亡霊たちを呼び出して助けを求め、その名前や闘いのスローガンや衣装を借用」しつつ「新しい世界史の場面」を演じていることにはまったく無自覚だったのである。彼らはまさか自分たちが「吉田松陰の115年後のアヴァター」を演じていたとは思いもよらなかったであろう。だが、まさに「過去の亡霊を呼び出して助けを求め」たからこそ、彼らの運動はそれから三年間にわたって、日本列島を混乱のうちに叩き込むだけの政治的実力を発揮し得たのだと私は思っている。

 その翌年、三島由紀夫は東大全共闘に招かれて、駒場の900番教室に姿を現し、1000人の学生を前にして、全共闘運動と彼の個人的な政治的テロリズムの「親和性」について熱弁をふるった。三島はこう言ったのである。

「これはまじめに言うんだけれども、たとえば安田講堂で全学連の諸君がたてこもった時に、天皇という言葉を一言彼等が言えば、私は喜んで一緒にとじこもったであろうし、喜んで一緒にやったと思う。(笑)これは私はふざけて言っているんじゃない。常々言っていることである。なぜなら、終戦前の昭和初年における天皇親政というものと、現在いわれている直接民主主義というものにはほとんど政治概念上の区別がないのです。これは非常に空疎な政治概念だが、その中には一つの共通要素がある。その共通要素とは何かというと、国民の意思が中間的な権力構造の媒介物を経ないで国家意思と直結するということを夢見ている。この夢みていることは一度もかなえられなかったから、戦前のクーデターはみな失敗した。しかしながら、これには天皇という二字が戦前はついていた。それがいまはつかないのは、つけてもしようがないと諸君は思っているだけで、これがついて、日本の底辺の民衆にどういう影響を与えるかということを一度でも考えたことがあるか。これは、本当に諸君が心の底から考えれば、くっついてこなければならぬと私は信じている。」(三島由紀夫・東大全学共闘会議駒場共闘焚祭委員会、『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』、新潮社、1969年、64-5頁、強調は内田


 ここで三島は日本の近代政治史において革命の契機となるべき「キーワード」が何であるかを実に正確に言い当てている。それは「国民の意思が中間的な権力構造の媒介物を経ないで国家意思と直結する」という夢である。幕末から近代に至るまで、すべての革命的な思想は、中間的な権力構造の媒介物を経ずに、国民の意思と国家意思が直結する「一君万民」の政体を夢見てきた。これに例外はない。
 
 明治維新のあと、まだ新政府がこれからどういう統治形態を採るべきか明確な意思を示し得なかった時点において、あるべき日本の姿を先駆的に実現した短期的な政体が存在した史実を橋川文三が伝えている。「隠岐コンミューン」と名づけられたものである。
 慶応四年三月、隠岐島民およそ三千人が武力によって松江藩郡代を追放し、これからは「中間的な権力構造の媒介物を経ず」に、島民と天皇が直接つながる政体を創り上げると宣言したのである。隠岐ははじめ徳川氏の支配下にあり、のち松江藩のお預かりとなった。島民たちはこの「媒介物」によって「恐れながら天皇の御仁沢を戴き奉るということを知らず」過ごしてきたことを深く恥じるという水戸学的メンタリティーを幕末にはすでに深く内面化していた。それゆえ「宣言」はこう続く。

「かたじけなくも祖先以来父母妻子にいたるまで養育せしめ、ひとしく年月を送り、あるいは富み栄えて鼓腹歓楽にいたるまで、ことごとく天恩を蒙り奉り候、然れば自己の身命に至るまで皆天皇の御物にして、毛頭我がものにはあらず、ここを以て鄙賤をかえりみず、身命をなげうって尽力いたし、皇国の民たる名分を尽くさずんばあるべからず。」 (橋川文三、『ナショナリズム その神話と論理』、ちくま学芸文庫、2015年、142頁)

 このとき隠岐島民たちは「幕藩権力の出先機関を追放し、直接に天皇の『愛民』たることを宣言した」わけである。

「彼らは、天皇の心に直接結びついた平等な人間の組織体として自覚し、その間に介在する中間的権力を否定することによって、自治的な政治共同体を樹立することになった。」(同書、145頁)

 橋川はこの自治共同体の企てをそう評価した上で、このような夢想を語る。

「たとえば、もしこの隠岐のコンミューンに似たものが全国各地に凡そ百くらいも次々と出現し、中間的権力機構をそれぞれに排除して全国的にゆるやかなコンミューン連合ができたとしたなら、その後の日本国家はどうなっていたろうか。」 (同書、146頁)

 残念ながらこの天皇と島民が「直結」することを夢見た「隠岐コミューン」は松江藩によってただちに鎮圧されて、姿を消した。それでも、日本における政治的ユートピアのモデルが「国民と天皇が無媒介的に結びつく統治システム」、渡辺京二が「日本的コミューン主義」と呼ぶものであるという確信はそのあともずっと生き続けた。明治初期から二・二六事件まで、反権力の戦いは久しく「有司専制を廃す」「君側の奸を除く」という定型句の下に行われたが、それはこの「定型」だけが民衆の政治的エネルギーを解発するということ彼らが知っていたからである。
 
 私は三島友紀夫が東大全共闘に向けて語った言葉をその時点では理解できなかった。なぜ「天皇と一言言えば」、極右である三島と極左である過激派学生たちが共闘できるのか。その理路が十八歳の私にはまったくわからなかった。しかし、それが理解できるようにならない限り日本における政治革命の可能性について語ることはできないということはわかった。だから、私は三島の言葉を私に課せられた一種の「宿題」として引き受けることにした。
 私がそう考えるようになったのには、同じ頃に読んだ、吉本隆明の転向論にも大きく影響されていた。
 戦前の共産党指導者だった佐野学、鍋山貞親は治安維持法で投獄された後に、日本の「國體」、国民思想、仏教思想に関する書籍を読み、その深遠さに「一驚を喫して」転向した。吉本はこの転向はおもに内発的な動機に基づくものであり、彼らを転向に追い込んだのは「大衆からの孤立(感)」と見立てた。
 吉本がこだわったのは、転向した知識人が日本思想史や仏教史について「何ほどの知識も見解もなくて、共産主義運動の指導者だった」のか、という「情けない疑問」であった。

「こういう情けない疑問は、情けないにもかかわらず、佐野、鍋山が、わが後進インテリゲンチャ(例えば外国文学者)とおなじ水準で、西欧の政治思想や知識にとびつくにつれて、日本的小情況を侮り、モデルニスムスぶっている、田舎インテリゲンチャにすぎなかったのではないか、という普遍的な疑問につながるものである。これらの上昇型インテリゲンチャの意識は、後進社会の特産である。佐野、鍋山の転向とは、この田舎インテリが、ギリギリのところまで封建制から追いつめられ、孤立したとき、侮りつくし、離脱したとしんじた日本的な小情況から、ふたたび足をすくわれたということに外ならなかったのではないか。」 (吉本隆明、「転向論」、『吉本隆明全著作集13』、1969年、10頁)

「この種の上昇型インテリゲンチャが、見くびった日本的情況を(例えば天皇制を、家族制度を)、絶対に回避できない形で眼のまえにつきつけられたとき、何がおこるか。かつて離脱したと信じたその理に合わぬ現実が、いわば本格的な思考の対象として一度も対決されなかったことに気付くのである。」 (同書、17頁、強調は内田)

 この手厳しい「インテリ」批判を私は自分に向けられたものとして読んだ。読んだ時はまだ大学生だったので、「インテリ」に類別されるレベルには達していなかったのだけれど、自分がいずれ「上昇型インテリゲンチャ」の一員になることはわかっていた。だから、この批判を「わがこと」として受け止めた。そして、「日本的情況にふたたび足をすくわれない」ためには、この「理に合わぬ現実」を「本格的な思考の対象」とすることを個人的責務として引き受けるしかないと思った。
 でも、この「理に合わぬ」政治概念を縦横に論ずる思想家・活動家たち(権藤成卿はその一人である)の書物を実際に読むようになったのは、それからずいぶん経ってからである。それまでは「日本的情況に足をすくわれない」ための予備的な自己訓練のために時間を割いた。
 まず私は武道の修行を始めた。二十代から合気道の稽古を始め、それから居合や杖道や剣術の稽古をするようになった。知命近くになってからそれに加えて能楽の稽古を始め、還暦を過ぎてからは禊祓いや滝行を修した。日本的な「由緒ある扮装」に順繰りに袖を通してみたのである。今は毎朝、道場で祝詞と般若心経を唱え、不動明王の真言で場を浄め、九字を切り、禊教の呼吸法を行うというお勤めをしないと一日が始まらない身体になった。遠回りのようだけれど、そういう人間になることの方が「いきなり本を読む」より適切だろうと私は思ったのである。
 この直感は筋が悪くないと思う。たしかに言葉から入るのは危うい。誤読する可能性があるし、何よりもこちらの身体に準備がないままに本を読むと、「わかった気になる」リスクがある。
 吉本は佐野・鍋山がろくに仏教書も読まずに知識人面していたのかと嘲ったけれど、それはたぶん違うと思う。彼らだってインテリである。本はちゃんと読んでいたのだ。でも、読んだけれど、「ぴんと来なかった」のだ。文字面の意味はわかったけれど、身に浸みなかった。そして、ずっと後になって、「大衆からの孤立」に苦しみ、「大衆がほんとうに求めているものは何か」を切実に知りたくなった時にもう一度それらの本を手にとってみたら、そこに書かれていたことが身に浸みてわかった。たぶんそういう順序だったのだと思う。
 だから、この「理に合わない」思想と感情と「本格的に対決」するためには、まず本を読むよりは、そのような理屈や言葉が「腑に落ちる」身体や感情に親しんでおく方が遠回りだが確実だろうと私は考えたのである。それほど論理的な言葉づかいをしたわけではない。そう直感したのである。まず身体をつくり、感情を深める。本を手に取るのは後でよい。いずれある日、それらの書物にふと「手が伸びる」機会が訪れるだろう。その時に手元に本がないと始まらないので、とにかく本は手に入るだけ集める。そして、手がすぐ届くところに並べておく。そうして、半世紀近くが過ぎた後、ある日「権藤成卿について書いてください」というオファーが来たのである。なるほど、来るべきものが来たのか、そう思って解説の筆を執ることにした。
 
 以上が、どうして私が解説を書くことになったのかの経緯である。ここまで書いたところで、「なぜ今権藤成卿が復刻されるのか」という第一の疑問についても、いくぶんか答えたことになるのではないかと思う。でも、結論を急ぐことはない。紙数はたっぷり頂いているので、「なぜ今権藤成卿が読まれなければならないのか」については読者が腑に落ちるまでゆっくり書いてゆくつもりである。
 本書の構成について。当初の計画では、まず権藤成卿の伝記的事実を記し、それから彼の思想について書くつもりだった。しかし、いざ書き出してみたら、伝記的事実や交友関係と思想は切り離せないことがわかった。というわけで以下では伝記的事実を叙しつつ、そこに登場する人物や、そこで成卿がかかわることになった出来事の歴史的意義や文脈について説明するためにそのつど脇道にそれるという書き方をすることにした。学術論文の書き方としてはまず許されないものだが、この解説は「なぜ今権藤成卿を読む必要があるのか」という問いに答えるという限定的な目的のための文章であるので、読者はこの破格を諒とされたい。
 なお、伝記的事実については、その多くを滝沢誠氏の『昭和維新運動の思想的源流 権藤成卿 その人と思想』(ぺりかん社、1996年)に拠った。この本が現在まで書かれた権藤成卿の伝記としては最も信頼性が高いものと思われるからである。
 紀年法としては元号を主として、()内に西暦を入れることにした。「明治維新」「大正デモクラシー」「昭和維新」などの歴史的事件には、元号が変わるとそれに合わせて世情人心も変わるという幻想的な時間意識が濃密に浸み込んでいるからである。(2024年7月30日)