みなさん、こんにちは。内田樹です。
これは『武道的思考』という僕の書き物の韓国語版です。原著は2010年に出たので、これは15年前の本ということになります。
さいわい、武道についての原理的な知見を記したものですから、時事性や速報性とは無縁です。それくらいの時間のせいで「時代遅れ」になるということはありません。
僕の考える「武道的思考」というのは東洋に固有の考え方です。ですから、日本だけでなく、韓国でも中国でも、たぶんベトナムやタイにも、このような人間の捉え方は(多少の地域的な違いを伴いつつ)、それぞれの文化の深層に確実に伏流していると思います。ですから、韓国の方でもお読みになれば、「なんとなく、わかる」ということがあると思います。
ただ、韓国ではたぶんそれを「武道的思考」というようなかたちで提示する人はこれまでいなかったのだと思います(韓国の武道界のことは僕はよく知らないのですが、僕のこの本が翻訳されるということは、これまで類書がなかったからではないかと推察します)。
僕自身、長い間「武道的思考」は日本固有のものだと思っていました。でも、最近になって、これは「アジア的思考」の一つの相なのかも知れないと思うようになりました。序文としてその話をしようと思います。少し長くなりますけれど、ご容赦ください。
アジアとヨーロッパ(アメリカもここに含めることにします)の人間観のきわだった違いは、アイデンティティーという概念にあると思います。
アイデンティティーはヨーロッパの哲学の核心にある概念です。「真の自分」「もう変わりようのない究極的な自分」のことです。
ヨーロッパ的な人間観によると、日常生活において、人間は「真の自分」ではありません。「偽りの自分」として生きています。家庭環境であったり、学校教育であったり、支配的な政治的イデオロギーであったり、さまざまな臆断によって、人は目を塞がれ、思考や感情を歪められ、定型化されているからです。ですから、無反省的に生きている限り、人間は「真の自分」にはなれません。自分の外殻にこびりついた自分の中に起源を持たないすべての夾雑物を洗い落として、「真の自分」を見出すように努力しなければならない。
これがヨーロッパ的な「アイデンティティーの哲学」の基本的な考え方です。
この哲学を代表するのは、ドイツの哲学者ハイデガーです。1933年のフライブルク大学総長就任演説で、ハイデガーはドイツ大学人に課せられた使命は「われわれがそうあらねばならないものに自らなるということなのである」と明言しました。
「われわれがそうあらねばならないものに自らなる」。わかりにくい表現ですが、要するに「真の自分になる」ということです。私たちは自分が「ほんとうは何ものであるのか、何ものにならねばならないのか」を先駆的・直観的にはぼんやりとは知っている。でも、さまざまな障害のせいで、まだ「真の自分」になっていない。だから、全力を尽くして、生涯をかけて「真の自分」になる。
ヨーロッパ思想において、この発想が完全に否定されたことはこれまでなかったと思います。マルクス主義、実存主義、構造主義、ポストモダニズム、フェミニズム、加速主義・・・と思想の意匠は次々に変わりましたけれども、「臆断の檻から抜け出す」「幻想から目覚める」「眠りから起こされる」という同じメタファーがいつも繰り返されてきました。
檻から出たり、眠りから覚めたりした人は「真の自分」として生の現実と向き合うことになります。映画『マトリックス』では、赤いピルを選んで、「マトリックス」にコントロールされた眠りから覚めたネオが、荒々しく生々しい現実世界と向き合う場面がありますけれど、これが「真の自分」の最も典型的な表象です(いささか単純過ぎますけれど)。
でも、アジア的人間観はそれとはずいぶん違うもののように僕には思われます。アジアでは、人間の成長は「自分探し」ではなく「自分を捨てる」ことを通じて果たされるという考え方が久しく主流だったからです。
人間は変わり続ける。ですから、どこかで「真の自分」に出会って、そこで「自分探しの旅」が終わるということはない。旅はいつまでも続く。目的地に到達することは永遠にない。
みなさんは「呉下の阿蒙」という話をご存じですか。『三国志』に出て来る逸話です。韓国の若い人たちがどれくらい『三国志』に親しんでいるのか、僕には想像がつきませんが、日本ではよく読まれている中国の古典の一つです。
その中に呉の勲臣である呂蒙将軍の話が出てきます。将軍はたいへん勇猛な武人でしたけれど、無学の人でした。呉王孫権が「もし将軍に学問があれば・・・」と嘆いたのに発奮して、呂蒙将軍はそれから学問に励みました。しばらく経ってから同僚の魯粛が将軍を訪れた時に、呂蒙将軍の学識の深さに驚嘆して「もはやかつての勇武だけの『呉下の阿蒙』ではない」と告げました(「阿」というのは親しみをこめた呼び方で「蒙ちゃん」というようなニュアンスです)。それに応じて呂蒙はこう答えました。
士別れて三日ならば、即ち更に刮目して相待つべし。
自分を高めようとする人間は、三日会わないでいるうちに別人になっている。だから、人と対面する時には目を見開いていなければならない、前に会ったときと同じ人間だと思ってはいけないという意味です。
僕が子どもの頃までは、学校の先生の中でも時々この言葉を引く人がいました。「大器晩成」という言葉もよく大人たちが口にしました。器の大きな人間は、成長するのに時間がかかる。だから、軽々に人の評価を下してはならないという意味でした。ここに流れているのは、「人間は変わり続ける」というアジア的人間観です。
僕の哲学の師匠であるエマニュエル・レヴィナスはこのヨーロッパ的な「そうあらねばならないものになるための旅」をオデュッセウスの冒険の旅になぞらえたことがありました。
オデュッセウスはトロイ戦争の後、長い冒険の旅でさまざまな「他者」に遭遇します。でも、この「他者」たちはオデュッセウスによって経験され、征服され、所有されるためにのみ存在するのです。一つ目の巨人との戦いも、魔女キルケーとの恋も、セイレーンの歌も、どのような冒険もオデュッセウスのアイデンティティーを揺るがすことはありませんでした。すべての冒険は、彼が故郷イタケー島へ向かう旅程を挿話的に飾るだけなのです。
この「自分自身であり続けたい」という自我への執着をレヴィナスは西洋形而上学のある種の「症状」だとみなしました。そして、レヴィナスは、それとは違う「旅」のかたちがあるのではないかという問いからその哲学を深化させてゆきました。
レヴィナスはこう問いました。人が生きる目的は「真の自分」に出会うことだというのはほんとうだろうか? むしろ人は「自分が自分以外のものになれないこと」「自分が自分自身に釘付けにされていること」に苦しんでいるのではないか?
レヴィナスの本をはじめて読んだ時(僕が30歳を少し過ぎた頃でした)に、「アイデンティティーの探求とは違う旅」というこの哲学的アイディアに僕は強く心を惹かれました。僕はその時にすでに多田宏先生に就いて合気道の修行を始めて数年経っていましたので「メンターに導かれて、修行する」ということがどういうことかは感覚的にはわかっていました。
修行というのは、師の背中を追いながら、無限消失点としての目的(武道の場合なら「天下無敵」)をめざしてひたすら道を歩むことです。自我への執着を武道では「居着き」と言います。道を進もうとする人にとって、一か所に止まりたいという思いは修行の妨げになるだけです。
レヴィナス哲学もまた「自我への執着」は「他者」との出会いを妨げると論じていました。
レヴィナスの他者についての哲学と、多田先生の教えは僕には「同じこと」を言っているように感じられました。
「感じられた」だけで、二人の教えのどこが「同じ」であるのかを、その時は言葉にすることはできませんでした。レヴィナス哲学もほとんど理解できていなかったし、合気道もまだようやく薄目が開いたくらいのレベルでしたから、それは仕方がありません。
今年で、合気道の稽古を始めて50年になります。レヴィナスの書物を読み始めてからも45年ほど経ちました。これくらいの時間があると、武道的思考とレヴィナス哲学のどこに通じるものがあるのかが、ようやく少しずつ言葉にできるようになりました。
一方に「真の自分」に出会うことをめざして「内へ向かう」生き方があり、他方に自分が自分でしかないことを束縛だと感じて、今の自分とは違うものになろうと「外へ出てゆく」生き方がある。
あまり単純な二項対立図式に還元してしまうのは、ほんとうはあまりよくないことなのですけれども、これくらいシンプルな話から始めて、だんだん複雑なニュアンスを加えてゆく方が読者のみなさんに対しては親切かも知れないと思います。
この『武道的思考』という書物は、僕が合気道の修行とレヴィナス哲学の研究を通じて、「アジア的な人間観」とはいかなるものか手探りしている時期の書き物です。ですから、トピックはばらばらですし、そこで示される知見も断片的です。でも、それらの断片が集まってジグソーパズルの図ができあがるように、この本を書きながら、僕の中でしだいに「武道的思考」の輪郭ができあがって来たのは事実です。その生成的なプロセスを読者のみなさんもご一緒に経験して頂ければさいわいです。
最後になりましたが、朴東燮先生をはじめ『武道的思考』の韓国語訳の翻訳出版のためにご尽力くださってみなさんに感謝申し上げます。本書が日韓の文化の近さと遠さを際立たせるものであることを願っています。
2025年2月
内田樹
(2025-02-09 08:33)