夏に『學鐙』という媒体に「私の原点」というテーマでの寄稿を求められた。多田先生の弟子になったのが私の原点である。そのことを書いた。年末に『學鐙』の編集者からメールをもらった。何を書いたか忘れていたので、筐底から取り出した。
私が人生の転換点に立ったのは1975年の12月末のある日ことである(正確な日付は残念ながら覚えていない)。その少し前に私は合気道自由が丘道場に入門していたのだけれど、その日に多田宏先生の弟子になった。この人を生涯の師としようと決めたのである。それが私の原点である。
その年の三月に私は大学を卒業した。在学中就活というものをしていなかったし、受験勉強をしないで臨んだ大学院入試にも落ちたので、卒業と同時にルンペンになった。
さいわい、70年代なかば日本社会は高度成長期のただなかであり、私のような人間のところにもぱらぱらと仕事の依頼があった。翻訳会社のバイトを週二日、家庭教師を週一日。児童書の出版社から月一ペースで翻訳仕事を回してもらって、そこそこ快適な一人暮らしを愉しんでいた。さすがに毎日3~4時間ほどは分厚いフランス文学史の本を読んで「受験勉強」はしていたが、あとはすることがない。部屋でロックやジャズのレコードを聴き、夕方になると友だちのお店に酒を飲みに行き、麻雀をした。時間のつぶし方については「達人」の域に達するようになった。二十代の折り返し点にさしかかった頃にさすがに「これではまずい」と感じるようになった。生き方を改めなければならない。
問題は生き方に一本「筋」が通っていないことだ。大学在学中は政治的枠組みの中での立ち位置で、自分が「なにもの」であるかについてはそれなりの自覚もあり、外部評価もあった(「プチブル急進主義者」でもラベルが何もないよりはましである)。卒業したらそんなものはもうなくなった。ただの「遊民」である。
自分のどこが悪いのかはわかっていた。妙に弁が立ち、筆が達者なので、ぺらぺらとまわりを煙に巻き、詭弁を弄し、巧い具合に立ち回ってきたのがよくなかったのである。「愚直に」なにごとかにまじめに取り組むということをしてこなかった。受験勉強なんかいくら真面目にやっても「愚直に」という副詞にはなじまない(あれは「バカみたいに」やるものだ)。私は生まれてから一度も「愚直に」生きたことがなかった。そう感じた。何かまったく新しいことをするべきだ。それは「師に就いて学ぶ」ことだと思った。
高校でも大学でも私は「師」と呼べるような人には会えなかった(親切な先生や学殖豊かな先生はいたけれど)。私に必要なのは、師に就いて、素直に、何の疑念もなく、心を開いて、ひたすら師が伝える技術や知見をゼロから学ぶことだということは直感された。どんな分野でもよかった。職人になるのでもよいし、僧門に入るのでもいいし、武道を修行するのでもいい。とにかく師匠に就きたい。そう思っていた。でも、師匠というのはどこにゆけば出会えるものなのか、その見当がつかない。
そうやって日々をぼんやり過ごしているうちに、12月のある日、夕陽が沈んだ後、いつものように自由が丘南口の人気のない道をピットインというジャズ喫茶にビールを飲みにゆくために歩いていた。改札口の横の古本屋の先の、いつもは暗い柔道場に灯りが点っていた。昼間なら白髯の老人がそこで子どもたちに柔道を教えているのを見たことがある。でも、その日は違って、道着を着た人たちが武術を稽古をしていた。袴を穿いている人がいるので柔道ではないことはわかった。私は大学では空手部にいたが、先輩を殴って退部になった。これは空手でもない。柔道でも空手でもない。これは一体何だろう。好奇心にかられて柔道場の玄関のガラス戸の前にしゃがみこんで中を覗き込んだ。
すると中で稽古していた青年が私に気づいてドアを開けてくれた。そして、「どうぞ、中に入ってご覧ください」と私を招じ入れた。この時点で私はかなりびっくりした。ふつう武道の道場というのは、見学者に対してこんなふうにフレンドリーなものではないからだ。道場の中に招き入れてくれるのはいい方で「黙って覗くな、馬鹿」と怒鳴られることだってある。
「これは何をされているんですか?」と私が訊くと、その青年は「これは合気道です」と教えてくれた。そして、隣に座って、入門案内を手に、合気道がどういうものかを手短に私に説明してくれた。私はその青年の礼儀正しい態度に感動して、説明をろくに聴き終わらないうちに「入門します」と言っていた。
合気道自由が丘道場は多田宏先生が師範をされている道場である。稽古は毎日ある。多田先生は週に一、二度おみえになるが、あとは門人の有段者が指導している、そう説明された。月謝は破格に安かった。道着は持っていたので、「では、明日から来ます」と告げて、道場を後にして、予定通りビールを飲みに行った。「思いがけないこと」がわが身に起こりそうな予感がして、気持ちが高揚していた。
多田先生と初めてお会いしたのは入門して数日後である。道場の扉を開くと、雰囲気が違う。先輩たちが何となくこわばった面持ちをしている。なんだろうと思ってふと横を見ると、古武士のようなきびしい面立ちの人が黙然と板の間に座っていた。一見して「ただものではない」ことはわかった。門人たちは緊張ではちきれそうになっていた。その日の先生の稽古の詳細は記憶していない。私のような初心者には先生が何をしているのか、まったくわからなかったからである。先生が手を差し出す、門人がそれを取りにゆく、次の瞬間に門人は空を飛んでいる。いつ、何をしたのか、わからない。どうも、これはすごい先生らしいということはわかった。
その日の稽古が終わったときに、最初に私を道場に招き入れた青年(笹本猛さんという方だった)が「暮れに納会がありますが、内田君は来ますか」と訊ねてくれた。入門したばかりの私に声をかけてくれたのがありがたくて、「はい、行きます」と即答した。
納会は多摩川園前の松籟荘という割烹旅館の二階で行われた。私が初めて会う先輩たちも含めて20人くらいが集まった。しばらくして、多田先生の方を見ると、先生は上座にひとりぽつねんと端座されている。先生の周りは先輩がたの席なのだけれど、諸先輩は別のところに固まって談笑している。
先生が一人でいるのを見て、ビール瓶を手にそばににじり寄っていった。そして、「今度入門した内田です」と一礼をしてから、先生のグラスにビールを注いだ。先生は「ああ、そう」と微笑して、「内田君はどういう動機で合気道を始めようと思ったのかね」と訊ねられた。即答できるような質問ではないのだが、気がついたら私は「はい、喧嘩に強くなりたいと思って」と言っていた。
愚かな答えをしたものである。でも、私は「そういうやつ」だったのである。そうやって思い切り虎の尾を踏んで、相手がどういうリアクションをするかを見て、人間を値踏みする。そういう「ろくでもないやつ」だったのである。そういうねじくれた根性を叩き直そうとして入門したのに、やはりそこでもいきなり「ろくでもない」言葉を初対面に近い師匠に向けて吐いてしまった。
口に出してから「しまった」と思ったけれどもう遅い。「馬鹿、そんなくだらない理由で稽古する気なら辞めろ」と一喝されても仕方がないと思って総毛立った。すると先生は意外にも破顔一笑して「そういう理由で始めてもよい」と言われた。
これにはほんとうに驚いた。でも、私は先生の意図するところがすっと腑に落ちた。「そういう理由で始めてもよい」というのは「そういう理由で始めてはいけない」という意味である。でも、先生は笑ってその間違いを許してくださった。
その時先生が私に伝えた言外のメッセージは次のようなものだったと後から思った。「君はどんな理由で合気道を始めても構わない。なぜなら君が私に就いてこれから学ぶのは君がまだその存在を知らない知と技だからである。だから、今の君には『正しい入門理由』を言えるはずがないのだ。」
少なくとも私はそう聴き取った。そして、その瞬間に「この人を生涯の師としてついてゆこう」と決断した。私は生涯に何度かシリアスな決断をしたけれど、これが最も重大な決断だったと思う。これによって私の人生はまったく別のものになったからだ。
それから48年、私は鈍根に鞭打って修行に励んできた。多田先生は御年94歳になり、相変わらず凛々しく道場に立っておられる。師に仕えることがどれほど豊かな経験であるかを私は多田先生に教えて頂いた。
(2024-12-26 15:19)