日替わりで政治的事件が続くので、コラムを書くのが大変である。でも、これはある意味では「よいこと」だと思う。それだけ政治的状況が流動化しているということだからである。
公人としての資質問題で失職した県知事が、なぜかSNSで圧倒的な追い風を得て再選されたかと思うと、そのSNS戦略を受注した広報会社の社長が内幕を公開したせいで公選法違反を咎められるという展開になった。
「選挙にまつわる膿」がこうして噴き出したおかげで「なるほど選挙制度というのはこういうふうに腐ってゆくのかが可視化された。これも「よいこと」に数えてよいかも知れない。
ある候補者は公選法が想定していないトリッキーな行動を次々ととることで都知事選も県知事選もカオス化してくれたけれど、改めて公選法が性善説に基づいて設計されているという厳粛な事実を前景化してくれた点では功績があったと思う。
私たちの社会制度の多くは性善説に基づいて設計されている。喩えて言えば田舎の道にある無人販売所みたいなものである。「りんご5個で300円」と看板が出ていればふつうの人はりんごを取って代価を置いておく。でも、たまに「システムの穴をみつけて悪用する人間(ハックする人)」が出てくる。あるだけのりんごを持ち去り、ついでに置いてある代金も盗んでゆく。ハッカーたちは「性善説を信じているやつらはバカだ」と高笑いするのだろう。
だが、その後りんご農家がこれに懲りて、店番を置いたり、防犯カメラを設置したりすれば、そのコストは商品価格に転嫁されて、次は「りんご5個500円」に値上がりしたりする。ハッカ―の取り分は良民が分担することになる。だから、制度の穴をみつけて自己利益を増やす人間をを「スマートだクレバーだ」とかほめる人は自分も彼らに盗まれていることに気がついていないのである。
盗まれるだけでは業腹だから「オレも今日からハッカーになる」と人々が我さきに制度の穴を探すようになると、今度は社会制度をすべて性悪説で作り直さなければならない。「市民全員が潜在的には泥棒である」と思われて暮らすのはずいぶん気鬱なことである。何よりまったく価値を生み出さない「防犯コスト」を全員が負担しなければならない。
そんな生産性の低い、気分の悪い社会に私は住みたくない。
あらゆる制度は性善説で制度設計した方が圧倒的に効率がよいし、生産性が高い 。何より性善説で作られた制度は利用者たちに向かって「善であれ」という遂行的な呼びかけを行ってくれる。「私はあなたが善良な人間であることを願う」というメッセージを制度が個人に送って来るのである。
これは「民主政には無数の欠点があるが、それでも他の制度よりはましである」というチャーチルの理路と通じるものがある。民主政は不出来な制度である。なにしろ有権者の相当数が市民的に成熟していないと機能しないからである。市民の過半が「子ども」だと民主政は破綻する。だから、民主政は市民の袖を捉えて「お願いだから大人になってくれ」と懇請する。
そんな親切な制度は他にない。帝政も王政も貴族政も市民に向かって「バカのままでいろ」としか言わない。統治者ひとりが賢者であって、あとは全員愚民である方が統治効率がよいからである。でも、独裁者はほぼシステマティックに後継者の指名に失敗する。そして、独裁制はどこかで「統治者もバカだし、残り全員もバカ」というカオスのうちに崩落する。
統治機構の復元力を担保するためには「一定数の賢者が社会的な層のどこかに必ずいて、統治者が不適切な場合に交替できる仕組み」が最も適切であることは誰にでもわかる。
民主政はその「最も適切な制度」であるのだが、不出来な制度である。「一定数の賢者」を特定の場所に特定の方法で育成しプールするということができないからである。当然のことだが、強制や脅迫や利益供与を以て人を成熟させることはできない。成熟した市民は「調達する」ことができず、「懇請する」という仕方を通じてしか呼び出すことができない。そこが「不出来」である所以なのである。
私たちの社会制度の多くが性善説で設計されているのは、その制度そのものが私たちに向かって「性、善であれ」と懇請してくるからである。その遂行的メッセージを聴き取れない者は邪悪であるのではなく、単に未熟なのである。
制度は生き物である。それが人間をどう成熟させ、世界をどう住みやすくするために作られたものなのか、たまには思量すべきだ。(12月16日)
(2024-12-16 14:56)