アメリカと内戦

2024-10-19 samedi

 アメリカで内戦があり得るかということが話題になっている。
 これはアメリカ合衆国という国の特異な成り立ちを知らないと意味がよくわからない。
 アメリカ合衆国は「自主的に建国した人たちが自国を州(State)として連邦に加盟したことでできた国」である。こんな成り立ちの国は世界に類がない。でも、この合衆国というアイディアのピットフォールは「加盟」はできるが「脱盟」はできないということである。1869年に連邦最高裁は「州が脱盟を自己決定することはできない」という判決を下した。でも、この法理には論理性がない。自分の意志で加盟した州なのだから、州議会決議と州民投票があれば脱盟できると考えるのがことの筋目である。
 そう、「それがことの筋目だ」と考える人たちがアメリカには今もたくさんいる。だから、内戦が問題になるのである。
 以下は信濃毎日新聞に寄稿したもの。今回はその第一回。

 映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』を観てきた。米国では半年前に公開されてずいぶん話題になった。カリフォルニア州とテキサス州が合衆国から脱盟して、合衆国政府軍と内戦するという話である.
 Civil War はふつう「南北戦争」を指すが、今回は「西軍」と合衆国軍との戦いである。どういう経緯で内戦が始まったかの説明がなく、主人公たち(ニューヨークからワシントンDCに取材に向かうジャーナリストたち)はいきなり銃撃戦の渦中に投じられる。目の前で人が殺されてゆくのだが、誰が誰を殺しているのかよくわからない。アパラチア山脈の中の山道をたどる旅路は両軍の前線なので、記者たちは自分たちが今いったいどちらの軍の支配地にいるのかわからない。
 米国人同士がすさまじい暴力を向け合うという設定は南北戦争を思い出せば意外ではない。南北戦争の死者数は50万人。第二次世界大戦29万人、朝鮮戦争3万7千人、ベトナム戦争5万8千人と比べると(かつ母数を考えると)戦死者数の多さは突出している。人間は「他者」に暴力をふるう時にではなく、「身内」に暴力をふるう時に節度を失うということがよくわかる。「つい先日まで同国人だった」という事実は暴力を制御せず、むしろ激化させると歴史は教えている。
 私たちは忘れがちだが、アメリカ合衆国は「連邦」であり、本質的な一体性を持たない便宜的な政治同盟である。独立時の13州は一種の「運命共同体」だったが、それ以後に加盟した州はそれぞれ固有の「建国の物語」を持っており、独立戦争の記憶を13州と共有しているわけではない。だから、州の独立、連邦からの脱盟が繰り返し政治的争点になった。合衆国憲法には州の連邦からの脱盟についての規定がない。「脱盟は可能なのか?」という問いは「アメリカは何によって統合されているのか?」という根源的な問いを私たちに突き付ける。

 『シビル・ウォー』の話の続き。
 合衆国憲法が州について禁止しているのは、既存の州内に新しい州を作ることと複数の州が合併して新州を作ることの二つである。脱盟を禁止するとは書かれていない。だから、南部11州が1861年に連邦を離脱した時に、南部人たちは、連邦加盟と同じく脱盟も州議会の決議と州民投票で決定できるものと信じていた。だが、戦後に行われた南北戦争の法的性格を問う「テキサス対ホワイト」裁判(1869年)で、連邦最高裁はテキサス州には連邦を離脱する権利がなかったという判決を下した。
 合衆国は「共通の起源」から生まれた一種の有機体であり、「相互の共感と共通の原理」で分かちがたく結びつけられている。それゆえ、新州は連邦に加盟した時点で「永続的な関係」を取り結んだのであり、それは「契約以上の何かであり、最終的なもの」である。よって州が連邦を離脱することは「革命によるか、あるいは諸州の同意による場合を除きありえない」と判決文は記した。
 これが今のところ連邦離脱についての法判断である。でも、常識的に考えると、この判決はかなり非論理的である。たしかに独立時の13州についてなら「共通の起源」を持つ一種の有機体であるということは言えるかも知れない。だが、以後に加盟した新州は違う。
 テキサスはメキシコ領だったがアメリカからの移民たちが反乱を起こして1836年に独立を宣言し、1845年に28番目の州として連邦に参加した。カリフォルニアもメキシコ領に入植した移民たちが1846年にカリフォルニア共和国として独立を宣言し、1850年に31番目の州となった。成り立ちがよく似ている。自分たちが作った国なのだから合衆国に加盟しようが脱盟しようがわれわれの自由だと思っていても不思議はない。
 この二州の脱盟の可能性を米国民は感じているからこそ、『シビル・ウォー』のような映画が作られるのだ。
(信濃毎日新聞、10月11日、18日)