10日ほど入院していた。部屋にはテレビがあったが、テレビを観る習慣がないので一度もつけなかった。新聞は朝夕部屋に届けられた。暇なのでこれは隅から隅まで読んだ。そして深い吐息をついた。なんと無内容なのか。日本有数の全国紙なのに、一つとして再読したくなる記事がなかった。
たしかに何が起きたのかは伝えられている。けれども、その出来事が「何を意味するのか」についてはみごとに何も書かれていない。いや、昨日今日の間に生じた変化についてなら多少は書いてある。「昨日と今日では言うことが変わった」とか「先週予想されていたのとは違う展開になった」くらいのことは書かれている。けれど、一年前から、あるいは10年前から、あるいは100年前からの歴史的文脈の中で今起きている出来事を俯瞰するという記事にはついに一度も出会わなかった。日本のジャーナリズムにそういう知的習慣がないということは身に浸みてわかった。
だが、かなり長いタイムスパンの中において見ないと、出来事の意味というはわからない。だから、文脈が示されないままに速報記事をいくら読まされても、今何が起きているのかはわからない。10日間新聞を読んでそれがよくわかった。これでは購読者がいなくなって当然である。
今年6月の調査で、朝日新聞は発行部数340万部、読売新聞は586万部だった。15年前に朝日は800万部、読売は1000万部を称していたからすさまじい部数減である。
2013年に私が朝日新聞の紙面審議委員をしていた当時、毎年5万の部数減だという報告を聞いた。危機的な数字ではないかと私が質したら、当時の編集幹部に鼻先で嗤われた。「内田さん計算してみてくださいよ。年間5万部なら800万部がゼロになるまで160年かかるんですよ」。
でも、実際には10年で60%部数を減らした。新聞記者は自分の足元で起きていることについてよく理解できていないということをその時知った。自分の足元で起きていることについて理解できない人間が、それ以外のトピックについては例外的に高い分析能力を発揮するということを私は信じない。
おそらくもうずいぶん前から日本のメディアは「現実を観察し、解釈し、その意味を明らかにし、これから起きることを予測する」といった一連の知的プロセスを放棄してきたのだと思う。もし報道において最も重要なのが「客観性」と「速報性」であるというのがほんとうなら、たしかにそのような「知的プロセス」は無用のものである。出来事の「解釈」に踏み込めば「主観」がまじるし、歴史的「文脈」を論じれば速報性とは無縁の「長い話」を語らなければならない。ストレートニュースを「未加工」のままごろんと放り出ておけばメディアの仕事は終わるなら話は簡単だ。
でも、そう思うようになってからメディアの頽廃はとめどなく進んだ。その記事が何を意味するのか、書いている記者も読んでいる読者もわかっていないようなニュースに読む価値はあるのだろうか。私は「ない」と思う。
新聞から読者が離れた最大の理由は新聞から批評性が失われたからである。批評性というのは今自分たちが囚われてる「臆断の檻」から逃れ出て、少しでも自由に言葉を語りたい、少しでも知性の可動域を拡げたい、少しでも遠くまで想像力を疾走させたい...という書き手の「切望」のことである。そのような「切望」を新聞記事からはもう全く感じることがない。だが、出来事を定型的な枠組みの中にはめ込んで、定型句で叙しただけの文章を読んで過ごすほど私たちの人生は長くない。(週刊金曜日10月2日)
(2024-10-11 10:43)