兵庫県の斎藤知事の失職に至る一連の出来事には現代日本の組織を特徴づける歪みが露呈していたように思われる。「組織マネジメント原理主義」と私が繰り返し呼んできたものである。
あらゆる組織は何らかの使命を託されており、それを実現するために存在する。けれども、組織が長く続くと、人々はその組織がそもそもいかなる「よきこと」をもたらすために、あるいはいかなる「悪しきこと」を防ぐために創建されたのか、その起源を忘れてしまう。
必ず忘れる。そして、いつの間にか組織の存続が自己目的化する。何のためにこの組織が存在しているのかを問うことを忘れて、「どういう組織であるべきか」についてばかり語り始める。
私が「組織マネジメント原理主義者」と呼ぶのはこの人たちのことである。彼らは社会の変化にそのつど最適化するためには組織は上意下達的に編制されていなければならないと信じ切っている。だから、あらゆる組織は最上位者の指示が末端まで遅滞なく示達されなければならない。完全に中枢的に統御された組織こそ最も迅速に環境の変化に即応できると信じているからである。これが今の日本社会の主流をなす組織論である。でも、ほんとうはそうではないのだ。
考えればわかるが、中枢的に統御された組織は、中枢が無能で愚鈍であれば環境の変化に即応できず破滅的な事態を招くからである。そして、まことに残念なことに、組織マネジメント原理主義者は「組織マネジメント原理主義者が組織マネジメントの中枢にいるべきである」という同語反復的命題のうちから踏み出すことができない。ほんとうは「賢い人が」が主語になるべきなのに。
兵庫県知事は典型的な「組織マネジメント原理主義者」だったと思う。だから、県庁を中枢的に統御することについてはきわめて熱心だったし、率直に言って、それにはかなり成功したのだと思う。そのひたむきな努力と真摯さは率直に認めてよいと思う。「パワハラ」と称されるものについて、彼自身は「強めの指導」ということ以上のものではないと今でも信じているはずである。それは「硬直的な制度」に文字通り「キックを入れて」、組織化を可塑化するためだったのである。下僚に暴言を吐いたり、無意味なタスクを強いたのも「ボスは誰か」を思い知らせて、組織は惰性や前例に従うのではなく、トップの恣意に従うべきだという「新しいルール」を周知するための努力だったのである。
おそらく、彼は知事1期4年をかけて県庁内に恐怖政治を敷き、その結果県庁を完全な中枢的な上意下達組織(独裁制と言ってもよい)に作り替え、2期目以降にそれを足場に県政のドラスティックな改革を実現するつもりでいたのだと思う。組織マネジメント原理主義者としてはそう考えることは少しも間違っていない。
彼の犯した最大の間違いは、中枢的な組織のトップで独裁的な権限をふるうことが許されるのは「そういうのが好きな人」ではなくて、「賢い人」でなければならないという「原理主義以前」の自明の真理を見落としていたことである。
今の日本社会にはこの知事と同類の「あまり賢くない組織マネジメント原理主義者」が跳梁跋扈している。日本がここまで没落した理由の過半はそのせいであると私は思う。(中日新聞 9月26日)
(2024-10-11 10:30)