ある国会議員から会いたいという連絡を受けた。政局の話かと思って伺ったら、「先生は死というものをどうお考えですか?」と質問された。政権交代の可能性についてあれこれ仮説を考えていたところに「そんなこと」を訊かれたので、びっくりしたが、「死」は私の念頭を去ったことのない主題であるので、思うところを述べた。
人間はいろいろな仕方で病んでいるけれど、最も重篤な病は「死ぬ」ということである。他の動物は「自分が死ぬ」ということを知らない。人間は自分がいつか死ぬということを勘定に入れて生きなければならない。一人一人が「自分がいつか死ぬ」ことの耐え難さを緩和するために、それぞれの物語を作らなければならない。「死について何も考えない」というのも一つの物語である。私も一つ自前の物語を持っている。
私はもう古希を過ぎて久しい。歯はインプラントだし、膝には人工関節が入っている。狩猟民の昔だったら食物も噛み切れないし、集団について歩くこともできない老人だから、とっくに路傍に捨てられて死んでいたはずである。臓器もあちこち傷んで来たが、医学の進歩のおかげで生きている。
だから、私の今の状態は「生きている」というよりは「まだ死んでいない」という方が近い。だんだん死に始めているけれど、まだ死に切っていないというのが私の実感である。
そのうち生物学的な死が訪れて、葬式も済み、「偲ぶ会」も賑やかに行われ、遺稿集も編まれ、七回忌が済む頃には知人友人たちもだんだん鬼籍に入る。そして誰かが「みなさんももうお足がおぼつかないお年になられたので、この十三回忌あたりで内田先生の法要も仕舞にしようと思うのですが、いかがでしょう」と言い出して、みんな「そうだね」と頷く。あとは古い門人や教え子がたまに墓の苔を掃いに来るだけで、私の名前を記憶している人もしだいにいなくなる。
そう考えるとだいたい生物学的に死ぬ十三年前くらいから「死に始め」、十三回忌あたりで「死に切る」という計算になる。つまり人間は前後27年かけてゆっくり死ぬ。というのが私の作った「物語」である。
こんな話なんですけれど、いかがでしょうかと言うと、かの国会議員も深く頷いて、「なるほど、そういう考え方もあるんですね」と納得されていたようである。
「自分が死ぬことの耐え難さ」を緩和するためにはいろいろな物語がある。現世で功徳を積めば来世はいいことがあるというのも、極楽浄土に往生するというのも、そのうち弥勒菩薩が救いに来てくれるというのも、どれも多くの人が選択した物語である。その中でもすぐれたものに「黄泉の国」を旅する物語がある。
村上春樹の長編小説の多くはある時期から主人公が「穴」に落ちて、「黄泉の国」を経巡ってから戻って来るという構造になっている。河合隼雄は村上春樹との対談で、「死後の世界」について想像力を行使するというのはとてもよい死への心がけだと述べている。
「いろいろ方法はあるのだけれど、死後に行くはずのところを調べるなんてのはすごくいい方法ですね。だから、黄泉国へ行って、それを見てくるということを何度もやっていると、やがて自分もどこへ行ったらいいかとか、どう行くのかということがわかってくるでしょう。」(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』、岩波書店、1996年)
さすがに河合先生は言うことが違う。(中日新聞「視座」3月号)
(2024-05-08 16:13)