『本の本』あとがき

2024-02-08 jeudi

『本の本』は朴東燮先生がセレクトした書物と出版と図書館についての僕の書き物のコンピレーション本である。韓国オリジナルの本である。既刊の『街場の読書論』や『街場のメディア論』やブログ記事からのセレクション。「あとがき」だけは新規に書き下ろした。

 みなさん、こんにちは。内田樹です。
『本の本』は僕があちこちに書いた書物と図書館についてのエッセイを朴東燮先生が選び出して、訳してくださった「コンピレーション」です。
 素材になったものには書き下ろしもありますし、講演録もありますし、ブログに書いた身辺雑記もあります。出自はいろいろです。でも、全部「本の話」です。
 まず、これだけの素材を集めて、一冊の本にまとめてくださった朴先生のご尽力に感謝申し上げます。ほんとうにいつもお世話になっております。
 この本は出版危機と電子書籍をめぐる話から始まって、図書館の話、学校教育の話で終わります。そして、ご一読して頂ければわかったと思いますが、僕の本についての考え方は、かなり変わっています。
 僕は「本を買う人」と「本を読む人」を分別して、用事があるのは「本を読む人」であると断言しておりますが、こういう立場を公言する人は、たぶん日本の職業的な物書きの中にはほとんどいないと思います。韓国ではどうなんでしょう。たぶん事情はそれほど変わらないと思います。
 僕は中学生の時にSFの同人誌をガリ版刷りして出版した時から一貫して、道行く人の袖を引いて「お願い、読んで」と懇請するという姿勢を通してきました。大学生の時は、政治的なアジビラやパンフレットをやはりガリ版刷りで作ってキャンパスで配布していました。学者になった後も、最初の頃の著作はどれも自費出版です。
 僕の場合、「市場のニーズ」がものを書く動機になったことはありませんだって、僕の書くものについての「ニーズ」なんてないんですから。誰も「書いてくれ」とは言ってくれない。でも、こちらにはどうしても言いたいことがある。だから、自分で書いて、刷って、配る。それが僕の基本姿勢です。
 ですから、僕はこれまでずっと市場原理とは原理的には無縁でした。
 市場原理に従うならば、「こういうものを読みたい」と思っている読者の需要がまずあって、それに見合うような商品が供給されるという図式になります。
 でも、僕はそんなのは「嘘」だと思います。
 いや、嘘というのは言い過ぎでした。たしかに、出版にはそういう需給関係という側面もあるかも知れない。
 でも、本が書かれる前に、その内容を先取りして、「こういうものが読みたい」と思う読者の側の潜在的需要なんてほんとうにあるんでしょうか。
 僕は「ない」と思う。
 そうではなくて、まず本が書かれて、それを読んだ読者が「こういうものが読みたかったんだよ!」と歓声を上げるというのがほんとうの順序なのではないでしょうか。
 そして、もちろん「こういうものが読みたかった」という読者のリアクションは読んだ後に読者自身が作った「物語」です。自分がひさしく求めていた「読みたいもの」の条件をぴたりと満たす書物についに出会った...という「物語」ほど僕たちを高揚させるものはありませんからね。僕たちは本に出合った後に、「その本を久しく待望していた私」というものを造形するのです。事後における記憶の改造をしているんです。
 もちろん、あわてて言い添えますけれど、それはぜんぜん悪いことじゃないんですよ。人間はそうやって記憶を書き換えながら生きてゆく生き物なんですから、それでいいんです。
「こんな本が読みたかった」というのは、読んだ後にしか出てこない言葉なんです。だから、市場原理主義者であるところの出版人たちがまるで「木」や「石」のような自然物であるかのように「読者のニーズ」という言葉を口にすることに、つよい違和感を覚えていたのです。
 それは書物が書かれるより前に自存するものではなく、書物が書かれた後に創り出されるものなんですから。

 僕は自分の執筆活動のことを「伝道」だと思っています。誰も頼んでないのに、その辺の路上で「道行くみなさん、私の話を聴いてください」と呼ばわるあの「伝道師」です。誰にも頼まれていないし、誰にも求められていないのに、身銭を切って、「申し上げたいこと」を申し上げる人です。
 僕は自分のことを「伝道師」だと思っています。
 僕はあるときはレヴィナスの伝道師であり、あるときはカミュの伝道師であり、また村上春樹の伝道師であったり、橋本治の伝道師であったり、大瀧詠一の伝道師であったり、小津安二郎の伝道師であったり、伝道することはさまざまですが、どれも誰かに頼まれて「お金を払うから、書いてください」と言われたものではありません。読む人がいようがいまいが、この人たちの偉大さについて、私にはぜひ申し上げたいことがある。だから書く。
 僕の場合、たまたま結果的に書いたものが商品としても流通して、お金を稼ぐことができるようになりました。でも、僕は生計を立てるために本を書いたのではありません。本を書いて、それだけで暮らしていけたらどれほど楽しいだろうと夢想したことはありますけれど、それはただの「そうなったらいいな」という夢に過ぎません。生計が立とうが立つまいが、そんなことは関係ない。誰も買ってくれないなら、自分で身銭を切ってお配りする。
 だって「伝道」なんですから。
 使徒たちが、キリストに向かって「あの、僕たちも生活というものがあるんで、先生の教えを伝道するに際して、先生からも少しバイト代を出してもらえませんか」と言ったり、会堂で聴衆に「はい、これから伝道を始めますが、僕たちにも生活というものがあるので、教えを説くに際してですね、お聴きになる方には事前に課金させて頂きたいと思います」と言ったりする風景を想像できますか。
 伝道には市場もないし需要もないし対価もない。そういうものなんです。僕はそういうつもりで半世紀以上「物書き」をしております。
 これはそういう「変な人」の書いた本についての本です。
 もし、この本を読んだ人が「こういうものが読みたかったんだ!」と言ってくださったとしたら、僕にとって、それほどうれしい言葉はありません。