韓国のYuYU出版社というところが私の本を出してくれる。韓国オリジナルの本である。編集者が送ってきた質問に私が答えるという結構である。これまで20の問いに答えた。これは19番目の質問。日本の読者からはあまり訊かれることのないストレートな質問である。
-先生は様々な著作で「学術」の重要性とそれを後世代にパスあるいはプレゼントする必要性を力説されています。 今回、弊社のYuYu出版社と企画した著作もある種の「学術」活動の重要な部分だと思います。 先生が考えていらっしゃる「学術」の本質が何なのかお聞きしたいです。
さきほど僕にとっての「文武両道」について書いたときに、僕の学術に向かう基本的な構えについては書きましたが、あれだけでは「学術の本質は何か」という質問には答えていませんね。では、僕が考える「学術の本質」は何かについて個人的な意見を申し上げます。
僕たちは「不可知」のものに取り巻かれています。宇宙の果てには何があるか僕たちは知りません。宇宙の起源は38億年前だそうですが、その「前」には何があったのか知りません。いずれ宇宙は終わるそうですが、その「後」には何が起きるのか、それもは知りません。内側を見てもそうです。身体の内側を覗くと、臓器があり骨があり、そのさらに内側を覗くと、細胞があり、そのさらに内側を覗くと、分子があり原子があり素粒子があり・・・でも、どこかでその「先」はもうわからないというところにたどりつきます。
つまり、この宇宙の中で人間が理解できる範囲というのは、あまり広くないということです。学術の仕事は、この「人間が理解できる範囲」を1ミリずつでも押し広げることでと僕は思います。
武道は、人間の身体という「ミクロコスモス」の内部に深く入り込んで、その構造と機能について研究する営みです。その意味ではきわめて「学術的」なものだと言うことができます。
哲学についての僕の考え方はたぶんふつうの哲学研究者とはちょっと違うと思います。もちろん、哲学が世界の成り立ちと人間の本質についての研究であることは明らかなのですが、僕は哲学にはもっと遂行的な意味があるような気がするのです。それは脳の機能を向上させることです。平たく言えば「賢くする」ことです。
脳の機能を向上させるというのは、人類の黎明期から、進化上の、あるいは生存戦略上最優先の課題であったはずです。生き延びるためには、絶対に必要なことです。
じゃあ、どうすれば脳の機能は向上するか。ここから先は僕の暴走的思弁ですので、話半分に聴いてください。
脳の機能を向上させるために最も有効なのは、難問に立ち向かうことです。自分の手持ちの経験的な知見や身体実感だけでは簡単に対応できないような難問にそれでも立ち向かうことです。
古代ギリシャの最初の哲学者たちは「万物の根源は水である」(タレス)とか「万物の根源は火である」(ヘラクレイトス)とかいう仮説を立てました。いずれも僕たちの経験実感にはなじまない知見です。とてもじゃないけど、簡単に「ああ、まったくその通りですね」とは応じることができない。でも、じゃあ「それは違う」といってきちんと反論ができるかと言うと、なかなかそうでもない。たぶん今僕がタレスやヘラクレイトス相手に議論しても、論破することはできないような気がします。
そもそもタレス自身もヘラクレイトス自身も、ほんとうは自分が言っていることを信じていたわけじゃないという気がするんです。なんとなく「万物の根源は水である」と言ってみたら、それですべての事象が説明できそうな気がした。いろいろな人が「そんなわけあるかい」と反論してきたけれど、次々と論破できた・・・というようなことがあったんじゃないかという気がするんです。
もちろん単に僕には「そんな気がする」というだけで、別に古代ギリシャでほんとうにそんなことがあったかどうかは知りませんよ。でも、たぶん古代の哲学者たちは「ふと思いついた仮説をめぐって当否について議論をする」という企てそのものが彼の属する集団そのもの知性を活性化するということに気がついたんじゃないでしょうか。
「超越」も「外部」も「他者」も「空」も「有」も「無」も「仁」も・・・およそ哲学的な主題はすべて僕たちの日常的な経験知を以ては太刀打ちできない難問です。どれも、それが何であるかを言うことができない概念です。でも、それが何であるか言うことができ主題についても人間は考えることができる。
例えば、「神」というのは人知を超えた存在ですから、それがどんなものであるか、誰一人確定的なことは言えない。「神」という概念についての一意的な定義はありません。人間を超えたものなんですから、人間が創り出した概念に回収できるはずがない。でも、だからと言って「『神』という概念は一意的に定義されていない語だから、それを使うのは止めよう」という人はいません。それが何を意味するのかわからない概念を用いて僕たちはふつうに会話したり、議論したりすることができる。
「それが何を意味するかわからない概念を用いて会話し、議論できる」ということって、よく考えたら「すごいこと」だと思いませんか。たぶんこの「すごいこと」をすることを通じて、人類はだんだん賢くなってきた。この作業は言い換えると、主題となる概念の決定をペンディングしたまま、ある程度の時間にわたって思考することができるということです。
マックス・ウェーバーの『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』という本があります。たぶん韓国語にも訳されているはずですから、社会学の基礎文献として読んだ方が多いと思います。この本の中で、ウェーバーは論考を始めるにあたってこう書いています。
「この論文の標題には『資本主義の精神』という意味深げな概念が使用されている。この概念はいったいどういう意味に理解すべきなのであろうか。これについて『定義』というべきものを与えようと試みる場合、われわれはただちに、研究目標の本質に根ざす或る種の困難に直面することになる。」
というのは「資本主義の精神」という概念がまだ定義されていないからです。定義どころか、そのようなものがほんとうに存在するのかどうかさえわからない。何となくウェーバーの脳裏にふと「資本主義の精神」というアイディアが浮かんだだけなんです。そして、それとプロテスタンティズムの倫理の間には関係がありそうな気がしたので、論文を書き始めた。「資本主義の精神」は論考の先立っては定義不能の概念だったのです。
「その確定的な概念的把握はそれゆえ研究に先立って存在しうるものなどではなく、むしろ研究の結末において得られるべきものなのである。」
ということなんです。「資本主義の精神」なる概念の定義は「研究の結末において得られる」ということは、本を読み終わるまで、読者たちは「資本主義の精神」という中心的な概念について、その定義をペンディングしたまま読み進めなければならないということです。
僕はこれが「哲学の真骨頂」ではないかと思うのです。ウェーバーが読者に求めたのは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神の間には相関関係がある」という命題に同意してくれることではなく、「資本主義の精神」という概念を論考の最後まで定義不能の語としてペンディングにしたまま本を読み進めることができる能力を開発することだった、と。
知性の開発のためには、何かが「わかった」と思って安堵することより、何かが「わからない」という不安のうちに思考するという「負荷」に耐えることが有効である。たぶん古来の賢人たちはそのことに気がついたと思うのです。
フロイトはの『快感原則の彼岸』はおそらく20世紀で最も繰り返し引用されたテクストの一つだと思いますけれど、この中でフロイトは「強迫反復」の症例研究から「死の本能(タナトス)」という概念を引き出しました。
ふつう人は「快を求め、不快を避ける」はずです。それが快感原則です。でも、人間は「なんら快感の見込みのない過去の経験」を繰り返し再現することがある。これは快感原則に違背します。フロイトが例示として挙げているのはこんな例です。
「あらゆる人間関係がつねに同一の結果に終わるような人がいる。かばって助けた者から、やがては必ず見捨てられる慈善家たちがいる。(...)どんな友人をもっても、裏切られて友情を失う男たち。誰か他人を、自分や世間に対する大きな権威にかつぎあげ、それでいて一定の期間が過ぎ去ると、この権威を自らつきくずし新しい権威に鞍替えする男たち。また、女性にたいする恋愛関係が、みな同じ経過をたどって、いつも同じ結末に終わる愛人たち。」
フロイトは「つぎつぎ三回結婚し、やがてまもなく病気でたおれた夫たちを死ぬまで看病しなければならなかった」女性をその典型的な事例として挙げています。もちろん、この女性は「もうすぐ病気になって死にそうな男」たちだけに恋愛感情を抱いたわけです。
彼らは同じような不快な経験を執拗に反復します。そこから導かれるのは反復することそれ自体が快感よりもさらに強い衝動だという仮説です。人間は「快を追求すること」よりも「同じ運命を繰り返すこと」を優先させる。この事実からフロイトは驚くべき仮説を導き出します。「快の獲得や不快の回避以上に根源的なもの」が存在する。それは原状回復の衝動である。
「要するに、本能とは生命ある有機体に内在する衝迫であって、以前のある状態を回復しようとするものであろう。」
「もし例外なしの経験として、あらゆる生物は内的な理由から死んで無機物に還るという仮定がゆるされるなら、われわれはただ、あらゆる生命の目標は死であるとしか言えない。」
こうしてフロイトは「死の本能(Todestrieb)」という概念を導出しました。ただ、注意して欲しいのは、フロイトがこの仮説を提示したあとに書いていることです。フロイトはこう書きます。
「ここに展開した過程を、果たして確信しているかいないか、またどの程度まで信じているかと問う人があるかもしれない。私は自分でも信じてはいないし、他人にもそれを信じよと求めはしないと答えたい。もっと正確に言えば、私がどの程度それを信じているか分からないのである。(...)われわれはある思考過程に身をまかせ、それが導くところまでついて行くことはできるが、それはただ学問的な好奇心からである。」(強調は内田)
ご質問は「学術の本質は何か?」というものでした。フロイトがその答えをここに示してくれているように思います。学術の本質とは、「ある思考過程に身をまかせ、それが導くところまでついて行く」ことです。それはしばしば私の経験知や身体実感とは両立しない。「資本主義の精神」も「死の本能」も、あるいはニーチェの「超人」も、マルクスの「類的存在」も事情はみな同じです。誰もそんなものを見たことがないんですから。だから、彼らの本を読んで「ああ、『超人』てあれのことね。それなら知ってるよ」と膝を打つということが決して起こらない。
でも、そんなことはまったく問題ではないのです。自分の経験知にも身体実感にも落とし込むことができない「未知」を抱え込んで、そして、「それが導くところまでついて行く」こと、それが学術という営みの本質だからです。
そして、まさにそのようにして人類はその知的能力を向上させ続けてきた。
自然科学がそうやって「未知」の領域を「既知」に繰り込んできたことはみなさんも同意してくださると思います。その成果は実績として可視化されますから。だから、自然科学が何の役に立っているかは誰にでもわかります。
でも、哲学が何の役に立っているかはよくわからない。わからないのも当然です。だって、哲学はこの「未知の領域を既知に繰り込む」能力そのものを開発しているからです。
能力そのものは目に見えないし、数値的に表示することもできない。僕たちが知り得るのはその能力が生み出したアウトカムだけです。
フロイトの言葉を借りれば、「私がどの程度それを信じているか分からない」ことについて思量できる能力、それが哲学が開発しようとしているものです。
僕は武道家としては、人間の身体が潜在させている「人知を超えた能力」を引き出すための技法を研究し、開発しているわけですけれども、学術の研究者としては「人知を超えたもの」について思量できる能力を向上させようとしている。この二つがめざしていることはそれほど違うものではないように思います。
(2023-12-27 09:56)