標記の書物の書評を東洋経済オンラインから依頼されたので、こんなことを書いた。
タイトルから二つのことがわかる。「新しい封建制」が切迫していること。それによってもっとも大きな負の影響を受けるのがミドルクラスだということである。少し前にこのコラムで紹介した『意識高い資本主義が民主主義を滅ぼす』と問題意識の多くは共通している。超富裕層への富の集中、テックジャイアントの国家化、左右のポピュリズムの興隆、ミドルクラスの没落と民主主義の機能不全・・・どれも最近のアメリカの書物や論文に頻出する文字列である。でも、さすがに「封建制」まで踏み込んだ用例を私は知らない。さて、「新しい封建制」とは何か。
「今日、アメリカその他の国で出現しつつあるのは、新しいかたちの貴族制である。というのも、脱工業経済のもとで、富が少数者の手に集中する傾向がますます強まっているからだ。社会の階層化が進み、多くの人びとにとって社会的上昇の機会が狭まりつつある。(...)社会的上昇の道が閉ざされようとしているなか、自由主義的資本主義(liberal capitalism)モデルは世界中で魅力が褪せていき、いくつかの新しい教義が現れつつある。その一つが、新しい封建制(neo-feudalism)とでも呼ぶべきものを支持する教義である。」(36頁)
世界中の富を占有しているのはテックジャイアントのCEOたちを始めとする「寡頭支配者(oligarchs)」である。
「世界人口の上位0.1%が保有する世界の富の割合は、1978年には7%であったが、2012年には22%にまで増加したとされる。(...)2030年には、上位1%の富裕層が世界の富の3分の2を支配することになると予想されている。」(37頁)
そして、この寡頭支配を理論的に正当化する仕事を担っているのが「有識者(clerisy)」たちである。中世の封建制では聖職者が担ったこの役割を、現代世界では学者、メディア知識人、宗教指導者たちが演じている。アベ・シエイエスの区分を借りれば、彼らが第一身分と第二身分に当たる。そして、かつてフランス革命の主体となった第三身分の「平民たち」は現代では中流階級と労働者階級の二つに分かたれる。本書はこの「平民たち」に向けて、「立ち上がって寡頭支配と闘え」と訴えるために書かれている。
ただ、いきなり結論を言って申し訳ないが、本書はたしかに寡頭支配の現状については詳細に記述しているが、「平民たち」がどう運動を組織し、どのような綱領の下に連帯して、戦うことができるのかについての具体的な提言は特にしていない。もちろん、「どうやって革命を始めるか」を知りたくてビジネス書を手に取る人はあまりいないから、それは本書の瑕疵ではない。その代わり、これから世界がどういうディストピアになるかについて、著者はなかなか豊かな想像力を駆使してくれている。
英米人にはディストピアを詳細に描くことに異能を発揮する人が時々いる。オルダス・ハクスリー(『すばらしき新世界』)とジョージ・オーウェル(『1984』)がその代表格であるが、テクノロジーの暴走的進化によって世界が焦土になり、人類が未開状態に退化するという「ディストピアSF」はアメリカ人の独擅場である。「ディストピアと化したアメリカ」を描いたSF映画を私はたぶん100本は観ている。
なぜアメリカ人はディストピアを描くのがこんなに好きなのか。私は個人的な仮説を一つ持っている。それは「ディストピアを詳細に描くことによって、ディストピアの到来を阻止できる」という信仰をアメリカ人は深く内面化しているということである。現に、核戦争でアメリカが滅びる話を何百回も繰り返して語ってきたこの80年間、核戦争は起きなかった。
私は著者ジョエル・コトキンも、そのような信仰に涵養されて育った人ではないかと思う。だから、「ディストピアの実相」を描くことにはきわめて熱情的だが、「どうやって革命を始めるか」についてはあまり知的リソースを割く必要を感じなかったのだと思う。「ディストピアの実相を描くこと」そのものが「ディストピア到来阻止闘争」のきわめて有効な形態であるとアメリカでは広く信じられているからである。
だから、この本には「これでもか、これでもか」と現代資本主義の許し難い実相が(非体系的に)描かれるが、話がだんだん深まるとか、前段の記述を踏まえてその後に思いがけない仮説が展開する・・・というようなことは(あまり)ない。最初の章と最後の章で、もだいたい同じことが書いてある。でも、その代わりにどこから読んでもよい。どこかの頁をぱらりと開いて、そこに驚くべきことが書いてあったら、赤線を引いて、それを知らぬ人たちに告げ知らせることができるし、たぶんそういう読み方を著者自身が望んでいるのだと思う。
この本で繰り返し強調されていることは三つある。一つは格差の拡大、一つは民主主義の危機、もう一つが「バラモン左翼」による言説支配である。とりあえずコトキンの主張を順番に紹介してゆこう。まずは格差の拡大について。
「2018年までに、テック企業4社(アップル、アマゾン、アルファベット[グーグル]、フェイスブック)の純資産の合計は、(...)フランスのGDPに匹敵する額に達した。世界で最も資産価値の高い企業10社のうち7社がテック業界に属している。テックジャイアントとも呼ばれる巨大テック企業は、巨額の個人資産を生み出しており、地球上でもっとも裕福な20人のうち8人はテック業界で財を成した人びとである。40歳以下の富豪13人のうち9人がテック業界の人間であり、しかも全員がカリフォルニアに住んでいる。」(75頁)
そんなことになっているとは知らなかった。全員がカリフォルニアですか。そして、この富の集中は雇用の消失をもたらしている。
「テクノロジー主導の社会では、科学や技術に秀でた『選民』とその他大勢の格差が広がる傾向にある。今日、10億ドル規模のビジネスを立ち上げようと思えば、コーダーや金融の専門家、マーケティングの達人など、ごく少数の集団で十分であり、ブルーカラーや
中間管理職はあまり必要ない。」(68-9頁)
デジタル企業の創業者へのインタビューによると、「創業者らの多くは、『少数の非常に才能豊かな人や独創的な人が経済的富のますます多くの部分を生み出すようになり、その他の人びとは単発・短期の仕事を請け負う"ギグ・ワーク"で収入を得つつ、政府の援助を受けながら生活していくのだろう』と考えているようである。」(85頁)
「お払い箱」になった労働者たちは当然貧困化する。
「カリフォルニア州の社会秩序を特徴づけているのは、いまや流動性(社会的上昇)ではなく、階層化である。(...)米国勢調査局によると、カリフォルニア州の貧困率は全米で最も高くなったという。(...)カリフォルニア州の児3分の1近くの家庭が、請求書の支払いをするのがやっとの状態であることが明らかになった。現在、カリフォルニア州の住民のうち800万人(うち児童200万人)が貧困にあえいでいる。」(98頁)
「貧困にあえぐ」ことの実相は以下の通り。
「グーグルなどの企業で働く下流階級や中流階級の労働者の多くは、トレーラーハウスを駐車場に停めて生活しており、車の中で寝泊まりする者もいる。シリコンバレーには、全米最大級のホームレスの野営地がある。」(102頁)
「アメリカのギグワーカーのうち、30代後半から40代(家族形成に最も適した年齢層)のおよそ3分の2が生活費の支払いに苦しんでいる。カリフォルニア州では、ギグワーカーの半数近くが貧困ライン以下で生活している。」(200頁)
ただし、この格差の拡大を「寡頭支配者たち」は座視しているわけではない。経済的に過度に窮乏化すると労働者たちが「鉄鎖の他に失うものはない」と自暴自棄になって反乱を起こすリスクがあるからだ。そこで「テック企業の巨頭たちの多くは、過去のビジネスリーダーとは対照的に、福祉国家の拡充を基本的に支持している」(85頁)
ここがポイントである。現在のテックジャイアントたちは「金ぴか時代」の富豪たちのような非道な守銭奴ではない。彼らは社会的弱者の生活を気づかい、気候変動や人権やLGBTについても「意識の高さ」を示す。株主に高額の配当をすることよりも、「国民の意識や政策に影響を与えること」(169頁)にむしろ関心を持っている。彼らはかつての啓蒙専制君主のように「開明的」なのである。
「ビジネスリーダーたちのこうした傾向は、寡頭支配層を有識者層(弁護士、学者、メディア関係者など)に近づける。」(170頁)
こうして、「芸術家と科学者」の連携が成り立つ。テックオリガルヒと有識者による世界支配という「新しい封建制」がやってくる。
「このモデルは寡頭制社会主義(oligarchical socialism)と呼ぶのが最もふさわしい。資源の再分配は、労働者階級と衰退する中流階級の物質的要求を満たすことになるであろうが、社会的上昇が促されることはなく、寡頭勢力の支配が脅かされることもないであろう。」(86頁)
寡頭支配者たちは「政治的に正しい」政策を現行の国民国家の政府よりも手際よく実行することができる(なにしろ個人資産がそのへんの国民国家のGDPを超えるのである)。
カール・ローズの『「意識高い系」資本主義が民主主義を滅ぼす』も同じことを指摘していた。一般市民が合法的に自分たちの利益になる政策実現をめざす場合には、政党や労働組合や市民運動を組織し、議会に代表を送り、法律を採択させて、政府に実行させる...という手間をかけなければいけない。でも、「開明的な」寡頭支配者に懇願して、彼らが「いいよ」と言ってくれて政策がすぐに実現するとしたら、民主主義などという手間暇をかける必要があるだろうか?
賢い独裁者が平民の要求を実現してくれるなら民主主義は要らない。そういう考え方もできるだろう。そして、テックジャイアントたちは「わりと賢い独裁者」のように見える。だったら...
こういう考え方は明らかに民主主義の土台を掘り崩すものだ。でも、こういう主張はもうアメリカでは珍しくない。つい先日読んだ「世界はAIを統治できるか」という論文の著者は「大手テクノロジー企業は、自らが創造したデジタル領域において、事実上の独立した主権をもつアクターとして行動してきた」と認めている。(Foreign Affairs Report, No.10, 2023, p.47)
自分たちが開発したテクノロジーがどんなもので、何ができるかを完全に理解しているのは企業だけである。そのテクノロジーが軍事転用されて地政学的関係を一変させたり、完全な国民監視システムを創り上げたり、大規模な雇用消失をもたらすリスクがある以上、テックジャイアントはもう「従来の主権概念を超えた」存在であると言わなければならない。もし、これから先、AI規制の国際的な協定を策定する気なら、企業のCEOたちを交渉のテーブルに政府と同じステイタスで招くしかない。その時、テックジャイアントは単立の国民国家と同格の政治的アクターに叙任される。
かくして、民主主義はテクノロジーの進化ゆえにかつてない危機に瀕している。この民主主義の無効を理論的に正当化しているのが知的エリートたちである。彼らは「世界統制官(World Controllers)」(これはハクスリーの『すばらしい新世界』に出てくる職名である)の役を担う。「教師、コンサルタント、弁護士、政府職員、医療従事者など、物質的生産以外のしごとに従事している労働者」(111頁)が、世論形成に深く関与して、かつてカトリックの聖職者たちがしたように寡頭支配の「正当性付与者」として働くのである。
コトキンが「バラモン左翼」と命名するこの「有識者」たちはとりわけ大学に巣食って、若者たちを洗脳しているらしい。
「1990年に『リベラル』または『極左』を自認する教授の割合は全体の42%であったという。2014年になるとその割合は60%にまで跳ね上がった。数年後、一流大学51校を調査したところ、リベラル派と保守派の比率は最低でも8対1、開きのあるところでは70対1であることがわかった。(...)ハーバード、イェール、スタンフォード、コロンビア、バークレーなど、国のリーダーを多数輩出している名門ロースクールの教授陣のうち自らを保守派と称しているのは10%にも満たない。」(129-130頁)
思わず「ほんとかよ」とのけぞるような数値だが、このデータが本当ならば、アメリカのアカデミアは「ほとんどイデオロギーの再教育キャンプのようなもの」であり、「大学は、オープンマインドな知識人を養成するのではなく、狂ったように福音を説く説教者まがいの次世代の活動家を育てている」(131頁)いう著者の指摘は正しいであろう。
コトキンによれば、その結果、学生たちはもう古典を読まず、歴史を知らず、批判精神を失い、強権に従属し、言論の自由の制限さえ受け入れる傾向が強いとされる。(134頁)
若者たちが民主主義に愛想をつかして、強権的な政体に惹かれているという指摘は確かに現代の政治文化の一面をとらえていると私も思う。現に、「マイノリティに不快を与えるとみなされる言論の規制にミレニアル世代の約40%が賛成」(134頁)しているというのは日本についても妥当すると思う。
とりわけ「環境保護主義」の若者たちは異説に対してはなはだ非寛容である。しかるに、寡頭支配者たちはこの「政治的に正しい」イデオロギーに対してはなぜかずいぶんと親和的な構えを示している。つまり、環境保護主義については、支配者と知的エリートの若者たちの間では意思一致が成り立っている。
でも、過激な環境保護主義によってとりわけ忍耐や不便や支出を強いられるのは、貧しさゆえに「環境にやさしくないライフスタイル」(例えばガソリン車を移動手段に使うような)を取らざるを得ないミドルクラスや労働者たちである。
現代の知的エリートたちはもう「意識低い」労働者たちとの連帯を受け入れない。かくして、プロレタリアとその同伴知識人たちの間の「150年以上にわたる連携は終わる」。それは階級闘争の時代は終わったということである。階級闘争を通じての資源の再分配よりもより効率的でフェアな分配方法を寡頭支配者と有識者が設計してくれる時代が到来する。
テックオリガルヒとバラモン左翼の脳内で構想されている未来社会はおそらく「多くの人が望まない未来」(262頁)になるであろうとコトキンは予測する。富が一極集中し、都市化が進み、家族が減少し、社会的流動性は失われ、政策立案はエリートに委ねられ、民意は政策決定に際して考慮されなくなる。というのは、例えば気候変動に対するアプローチは市民生活に「戦時体制」に類するきびしい生活上の不利益と制約を要求することになるが、それが実現できるのは強権的な政体だけだからである。コトキンによれば、「問題が複雑なればなるほど、民衆の意見を無視したエリート主導の解決策が必要になる」という「寡頭制の鉄則」がこれからの統治の基本になる。(280頁)
民主主義にとっては絶望的な話ばかりだけれども、果たして現代の第三身分に革命のチャンスはあるのだろうか? これについてコトキンはほとんど実用的な知見を伝えてくれない。
「今日求められているのは、中流・労働者階級にとっての機会の拡大という第三身分の向上心に応えることを主眼とする新しいかたちので政治である」(284頁)とコトキンは書くが、それは「病気になったら、めざすべきは健康である」というのとあまり変わらない。まったくその通りであるけれど、でも、どうやって?
疑問符を頭上に点じながら最終頁までたどりついたところで、コトキンはいきなりこんなことを書いて私の度肝を抜いてくれた。
「日本は、たとえ経済の成長が止まっても、その代わりに精神的なものや生活の質の問題に関心を向けられる高所得国のモデルとなっていると考える学者もいる。日本は将来世界を征服するようなことはないであろうが、高齢化が急速に進む一方で快適な暮らしが送れる、アジアにおけるスイスのような存在になりうると考えている専門家もいる。」(290頁)
ちょっと待ってくれ。日本が「新しい封建制」の到来を阻止する橋頭保になりうるなどという話をここでいきなり振られても困る。
いや、たしかに世界各国の富裕層の人たちが「精神的なもの」や治安のよさや美食や温泉やスキー場を楽しむために日本を訪れ、「アジアのスイスだな、ここは」と満足顔をするということはもうすでに起きている。でも、その場合のわれわれ日本人の未来は「富裕層向けリゾートの下働き」として「アジアのスイス」を下支えするというなんだかあまり楽しくなさそうなものに私には思えてしまうのだが。
(2023-11-16 08:58)