「お墓見」の季節

2023-09-30 samedi

「お墓見」というものをしている。私が主宰している凱風館の門人たちのために2019年に合同墓を建てた。その墓前で、いずれそこに入る予定の人たちが集まって法要を営み、会食するという行事である。今年で五年目になる。
 きっかけは凱風館の寺子屋ゼミで、ある女性ゼミ生が「親の墓の管理までは自分が責任を持つけれども、私が死んだ後、私のことは一体誰が供養してくれるのでしょう?」という問いを口にしたことである。門人には独身の方、子どものいない方が少なくない。この人たちにとっては死後「誰が自分を弔ってくれるのか?」ということが切実な霊的問題なのだということをその時に知った。
 そこで私が「じゃあ、凱風館でお墓を作りましょう」と提案した。これなら「供養してくれる人」は長期的に確保できる。
 武道の道場は、私が師から学んだ技法と思想を次世代の人々に継承するための場所である。門人たちはまた次の世代にそれを手渡す。そのようにして道統が受け継がれる限り、修行する顔ぶれは変わっても、修行の営みそのものは変わることなく続く。道場でお墓を作れば、道場が続く限り、弔う人は絶えることがない(はずである)。
「誰が私を供養してくれるのか?」というのは重要な霊的問いである。能の後ジテは多くが死者の霊であるが、彼らは生者に向かって「跡(あと)弔いて賜(た)び給へ」と懇請する。その確約を得てはじめて人は成仏できる。
「跡」と言っても、それほど長い期間である必要はない。自分が死んだ後、しばらくの間、自分のことを知っている人たちが集まって、自分について思い出を語ってくれればそれでいい。その友人知人たちもいずれ鬼籍に入る。そうしたら、もう私のことは忘れてもらって構わない。だから、十三回忌辺りで法要を打ち止めにしても、死者は別に恨まないと思う。固有名での法要はそのくらいで十分、あとはまとめて「ご先祖様」という扱いで結構である。
 だいたい人間というのは、生物学的な死よりもずいぶん前からちょっとずつ死に始めているのである。眼が見えない、歯が抜ける、足腰が立たないというかたちで身体部位が少しずつ機能を停止してゆく。私も歯はインプラントだし、膝は人工関節であるから、半ばサイボーグである。狩猟民の時代なら、獲物が取れず、肉が噛み切れなくてとっくに死んでいる。さいわい医療技術の進歩のおかげで馬齢を重ねているが、「気分はもう死人」である。そうやってだんだん人は死んでゆくのである。
 でも、その代わり、死んだからと言ってもいきなり死ぬわけではない。死んだ後も、人々はことあるごとに「あの人が生きていたら、どう言うだろう」「あの人がこれを見たら、どう思うだろう」というかたちで死者を呼び出して、自分の生き方の規矩とする。
 私も、生きている時には父親の説教なんか右の耳から左の耳に聞き流していたくせに、死んだ後になるとよく思い出した。「なるほど、父は私にこう言いたかったのか」と得心して、心の中で手を合わせるということが幾度あったか知れない。
 人はそうやって生きながらだんだん死に、同時に死んだ後もなかなか死ななない。たぶん死ぬ13年前くらいから段階的に死に始め、死んだ後13年くらいかけて死に終わる、というのが私の仮説である。およそ四半世紀かけて人間はゆっくりと死ぬ。けっこうたっぷり時間があるのだ。死に始めてからの時間を豊かに過ごすことと、死に終わった後も頻繁に思い出してもらうために生きているうちに何をしたらよいのか、それを熟考するのが中年過ぎた人間の「霊的課題」だと私は思う。