原爆の表象

2023-09-25 lundi

 映画『オッペンハイマー』に広島長崎への原爆投下の場面がないことがネットでは話題になった。同じクリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト ライジング』でバットマンはゴッサムシティの人々を守るために核爆弾を街から6マイル離れた「安全な海上」に投棄する。でも、バットマンも市民たちも被曝した様子はない。
 『インディー・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』にはネバダの原爆実験場に迷い込んだジョーンズ博士がカウントダウンを聴いてあわててモデルハウスの冷蔵庫に隠れて(多少の打撲以外)無事という場面がある。
 どうやら米国民は核兵器というものを「ちょっと大きめの爆弾」程度のものと思っているらしい。世界最多の核保有国の国民が自国の所有している兵器について、このようなシリアスな誤解をしていることはやはり一種の「病」と言ってよいだろう。なぜ、米国民は核兵器の破壊力や毒性をこれほどまでに過少評価するのだろう。
 罪責感の裏返しだと私は思う。広島長崎への原爆投下後、その惨状を伝え聞いた米国民の間から深い罪の意識を持つ人たちが出て来た。主にキリスト教徒とリベラル派の人たちが「敗戦必至の日本に原爆を投下して20万人の市民を殺す必要があったのか」とトルーマン大統領を責めた。1946年の東京裁判の冒頭で弁護人ブレイクニー少佐は「原爆を投下した者、計画した者、その実行を命じた者もまた殺人者ではないか」と述べて、米国には「平和に対する罪」を裁く権利はないと論じた。
 この罪責感が米国内に反核の流れを作り出すことを懸念したスティムソン元陸軍長官は1947年に「原爆投下によって100万人の米兵の生命が救われた」という声明を発表した。この声明には何の統計的根拠もなかったが、米国民はこれに飛びついた。原爆投下に疚しさを覚える必要がないということが以後米国民の公式見解になった。
 だが、これもある種の歴史修正である。一度ついた嘘は最後までつき通さなければならない。米国民が「原爆なんてただの大きな爆弾だ」という「物語」を以後服用し続けているのはおそらくそのせいである。抑圧されたものは症状として回帰する。
(AERA9月6日)