憲法記念日は毎年どこかで講演する。いつもだいたい「憲法は空語だ」という話をする。憲法に書かれているのは「あるべき世界」についての願望である。現実とは乖離している。けれども、それは透視画法の消点のようなもので、そこをめざして現実を変成してゆくための目標である。
「人間は自由で権利において平等なものとして生まれる」という人権宣言の言葉も、「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」という独立宣言の言葉もどちらも空語である。現在のフランスにも米国にもそんな現実はないからだ。
「現実と乖離しているから憲法を書き換えろ」という人たちがいる。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という憲法前文を取り上げて「この世界のどこに『平和を愛する諸国民』が存在するのか。誰もが自己利益を追求して、殺し合っているではないか」と言う人たちがいる。では、現実のありのままに叙した憲法を制定した後、彼らはどのような世界を築くために、どういう努力をする気なのか。ただ現状を肯定し、現状を追認してゆくことを「国是」に掲げた後、何をする気なのか。
先日の憲法集会では最後に「憲法の主体は誰でしょう?」という質問をフロアから受けた。私はこんなふうに答えた。
「日本国憲法に主体がいるとすれば、それは白い紙と鉛筆を渡されて『あなたの国の憲法を自分で制定してください』と言われた時に今の日本国憲法の条文のようなものを自力で書き上げることのできる人です。それができる日本人はまだいません。これから生まれるのです。この憲法を自分の発意で、自分の言葉で書ける日本人が憲法の主体です。そのような人間を創り出すことが私たちの仕事です。」
(信濃毎日新聞 2023年5月6日)
(2023-05-10 09:48)