『「意識高い系」資本主義が民主主義を滅ぼす』書評

2023-05-10 mercredi

『「意識高い系」資本主義が民主主義を滅ぼす』(カール・ローズ、庭田よう子訳、東洋経済新報社、2023年)の書評を東洋経済オンラインに寄稿した。

「ウォーク資本主義(woke capitalism)」とは聴き慣れない言葉である。本書はこの「聴き慣れない言葉」の意味をていねいに教えてくれる。でも、説明されても「ああ、『あのこと』ね」とぽんと膝を打つという人はあまりいないと思う。woke capitalism は日本にはまだ存在しないからである。

 woke はwake (起こす、目覚めさせる)という他動詞の過去分詞である。「目覚めさせられた」という意味だが、60年代からアフリカ系アメリカ人の間では「人種的・社会的差別や不公平に対して高い意識を持つこと」という独特の含意を持つようになった。そういう意味で半世紀ほど使われたあとに、意味が逆転した。
 意味を逆転させたのは「政治的に反動的な信念を抱く人々」である。彼らは差別や不公平に対して「高い意識を持つ」というプラスの意味を反転させて「誤った、表面的な、ポリティカル・コレクトネス的な道徳性」(19頁)をふりかざして大きな顔をする「いやなやつら」というネガティヴな含意をこの語に託した(wokeに「意識高い系」という訳語を当てた訳者のセンスはすばらしい)。たしかに、「意識高い系」のセレブたち(レオナルド・ディカプリオとか)が気候変動サミットにプライベートジェットで乗りつけるさまを見ていると、「彼らの政治的信念の信憑性、少なくともその一貫性についてはシニカルにならざるをえない」のもわかる。(19-20頁)

 アマゾンの元CEOジェフ・ベゾスは「気候変動がわたしたちが住むこの惑星に与える壊滅的な影響と闘うため」の基金に100億ドルを寄付した。政治的にはまことに正しい行為である。だが、その一方で、アマゾンはありとあらゆる手立てを講じて納税を回避している。「2010年から2019年までの間に、アマゾンは9605億ドルの収益を上げ、268億ドルの利益を蓄積したが、納めた税金は34億ドルだった。(...)2018年に、アマゾンは110億ドルの利益を上げたにもかかわらず、アメリカで法人税をまったく払っていない。2019年の利益は130億ドルだったが、実効税率はわずか1.2%だった。」(165頁)
 アマゾンがフェイスブック、グーグル、ネットフリックス、アップル、マイクロソフトなど「法人税逃れのならず者たち」の中でも「最大の悪党」と呼ばれても「驚くには当たらない」と著者は書いている。(166頁)

 NFLのスター選手コリン・キャパニックは2016年に試合開始前の国歌斉唱を拒否し、膝をつくというパフォーマンスによって、「アフリカ系アメリカ人の権利を求める公然たる不屈の政治的アクティヴィズム」(202頁)のシンボルとなった。彼はインタビューに対して「黒人や有色人種を抑圧する国の国旗に誇りを示すために立ち上がるつもりはありません」とその行為を説明した。彼はそのシーズンの間国歌斉唱のたびに膝をついて、全米に賛否の論争を巻き起こした。支持者たちからは「新しい公民権運動の顔」と称され、ドナルド・トランプは「あのクソ野郎を今すぐにフィールドから追い出せ」とNFLのオーナーたちを煽った。
 その結果、NFLはキャパニックの行動を「自分たちの商業的利益にならない」と判断して、次のシーズンに彼と契約するチームは一つもなく、キャパニックは早すぎるリタイアを迎えることになった。
 ところが、2018年9月NFL開幕直前に、キャパニックは「何かを信じろ、たとえすべてを犠牲にすることになっても#Just do it」というツイートを上げた。Just do it はナイキのスローガンである。そして、その後ナイキは「ドリーム・クレイジー(とことん夢みろ)」という大規模な広告キャンペーンを展開した。TVCMのナレーションを担当したのはキャパニック。彼は「どんな障害があっても、自分の夢を追いかけよう」と呼びかけた。(201頁)
 トランプは激怒し、このキャンペーンのせいでナイキは「怒りとボイコットのせいで息の根を止められるだろう」と予言した。同時に、トランプは、キャパニックの「非愛国」的ふるまいのせいで、アメリカ人たちはフットボールの試合をテレビで観ることを止め、それがNFLに莫大な損害を与えるだろうとも予言した。
 この時トランプは図らずもアメリカにおける右派の三つの伝統的立場を明らかにした。一つは「伝統的な愛国者は国旗国歌に敬意を示すべきである」、一つは「資本家は雇用している労働者を支配できる」、一つは「ある種の政治的主張は経済リスクを伴う」である。愛国心、労使関係、政治的主張と商業的利益の関係、三つの大きな論件をトランプはキャパニックの一件で前景化してみせた(わずかな語数で問題の本質を明らかにできるという点でたしかにドナルド・トランプは一種の天才である)。
 これに対してナイキは「正反対の商業的・政治的論理」(209頁)を掲げてるトランプと全面戦争に入ることを選択をした。
「愛国的であるとはどのような行為のことを指すのか」、「労働者は資本家に対してどのようにして自分たちの権利を守るべきか」。この二つはいわば「近代的な」問いである。さまざまな人がこれまでそれぞれの知見を語ってきた。でも、第三の問いは違う。これは近代においてはたぶん一度も(マルクスによっても、ウェーバーによっても)立てられたことのない問いである。それは「政治的に正しくふるまうことは、そうでない場合よりも多くの経済的なベネフィットをもたらすか?」である。 そして、2018年にナイキはこの問いに「政治的に正しい方が儲かる」という答えを出してみせた。
 ナイキの「ドリーム・クレイジー」キャンペーンは最終的に大成功を収めた。「大手企業がキャパニックのアクティヴィストとしての大義を支援することに、感銘を受けた左派の人々もいた。(...)揺るぎない政治的信念を持つ人と関わるリスクは十分に報われた」のである。(212頁)このキャンペーンの後、ナイキの株価は5%上昇し、時価総額は60億ドル増加したからである。

 だが、これをwoke capitalismの圧倒的勝利と見なしてよいのだろうか。これに対して著者はいくつかの留保をつける。
 一つはアマゾンにおける脱税と同じように、ナイキは「スウェットショップ問題」を抱えてからである。
 sweat shop とは「搾取工場」、低賃金労働者が違法な労働条件で酷使される工場を意味する。90年代にナイキの製造工場の非人道的な低賃金と過酷な労働を扱ったドキュメンタリー映画が公開された時、それは世界的なスキャンダルを引き起こした。ナイキは労働条件の改善を約束したが、いまだ十分には実現していない。
 もう一つの留保は、キャパニックがナイキのスポークスパーソンに選ばれても「アメリカの黒人の不安定な生活は少しも変わらないという事実が覆い隠されている」ことである。(220頁)
 ただし、この指摘は「あら探し」に類するものと言ってよいと思う。一人のアクティヴィストはナイキからいくばくかの経済的利益を得たが、アフリカ系アメリカ人全員は同じような恩恵に浴していない、だからこんな運動に意味はないというのは言い過ぎである。進歩というのは斉一的に実現するものではない。少しずつランダムになされるものだ。
 そして、もう一つナイキの勝利に対しての留保がある。これがこの本の核心である。それはナイキがキャパニックのアクティヴィズムと歩調を合わせたのは、それによって得られる商業的利益をめざしたからだというものである。ナイキは商業的利益やブランドイメージの改善を得られる見込みがあったので、キャパニックの政治的主張を利用した。「企業が自分たちの利益のために、他者が作り出した流行に乗っているだけではないかと問うべき理由は十分にある。」(221頁)
 
 ここで話がややこしくなってくる。woke capitalism は「意識高い」に軸足を置いているのか、「資本主義」に軸足を置いているのか、どちらなのか。
 NFLは2020年のシーズン開幕戦で国歌斉唱の前にLift every voice and sing を演奏することを決めた。19世紀から歌い継がれてきた奴隷制の記憶と自由を求める闘いを歌った「黒人の国歌」である。この歌を開幕戦で流すことについて、NFLは「人種差別と黒人への組織的抑圧を非難し、かつてNFLの選手たちの声に耳を傾けなかったことは過ちであると認め」た。(226頁)2017年のキャパニックの事実上の追放からわずか3年間でNFLは180度方向転換したことになる。
 もちろんこれはジョージ・フロイド暴行殺人事件(2020年5月)のあと全世界に広がったBlack Lives Matter 運動に直接反応したものである。世論の圧倒的な流れに直面してNFLは豹変したのである。
「NFLはビジネスであり、ビジネスである以上、顧客を無視するわけにはいかない。(...)世界がブラック・ライヴズ・マターを支持するならば、NFLもそうすることが商業的には当然である。」(230頁)
 このNFLの変節を著者はきびしく咎める。NFLがBLM運動への支持を表明したのは、ただそうしないと顧客が離れると思ったからである。NFLだけではない。「あらゆる種類の企業が素早くこの流れに乗り、公式に声明を出した支持を表明した。現に、反人種主義への支持が主流となった政治的環境において、世界中の企業が政治的に覚醒したふりをした。」(231頁)
 著者はこれを「企業が自らのブランドを政治的大義と一致するように行動する『ブランド・アクティヴィズム』」とみなす。それは「国民感情へのあからさまな迎合」であり、「中身を伴わない『売名行為』」に過ぎない。 
「わたしたちは真の変化を目撃しているのではなく、企業の富と利益を増大させるために黒人の抵抗を利用する、一筋縄では行かない人種的資本主義の拡張を見ているのだ。この場合のウォーク資本主義は、黒人や労働者階級の人々を搾取するもうひとつの形態にすぎない。搾取は彼らの身体の労働にとどまらず、彼らの闘争、政治、思想、精神にまで及んでいる。」(245頁)
 
 ウォーク資本主義が信用ならないものであることは本書の指摘の通りである。次の問題は、題名にあるように、それが「民主主義を破滅させる」というのはどういうことか、である。著者はこう説明する。
 自由民主主義国家は三つのセクターに分かれる。第一のものは政府、警察、司法機関、公立学校、病院などの公的セクター。第二が営利企業。第三が非政府の公共機関。教会、スポーツクラブ、慈善団体など。ウォーク資本主義の特徴は、第二の営利企業セクターが、他の二つのセクターの仕事を代行してしまうという点にある。つまり、国家の全領域が私企業の「それは儲かるのか?」というロジックに従属するということである。
 
 ウォーク資本主義は原理的に非民主的である。これは当然である。アマゾンにしても、ナイキにしても、政治的イシューに大きな影響力を及ぼすわけだけれども、影響力をどう行使するかを決めるのは、CEOやマーケティングや広報のスタッフなど一握りの人間である。彼らが「政治的に正しくふるまうと、どれくらい儲かるか」について思量し、決断を下す。あまり儲からないという予測が立てば、政治的に正しくふるまうインセンティブは消える。一握りの人間が政府の領域にまで入り込んできて、公共の利益がいかにあるべきかを決定することは許されるのか。彼らが仮に善意の人であり、その行為が公共の利益にかなうものであるとしても、その手続きは民主的とは言われない。

 2010年にビル・ゲイツとウォーレン・バフェットは大規模な社会貢献キャンペーンを始めた。イーロン・マスク、マーク・ザッカーバーグら大富豪たちの支持を得て、「社会の最も差し迫った問題に取り組むために、自分たちの富の大半を提供することを誓」った。(289頁)彼らが供出した数千億ドルの原資は「『気候変動、教育、貧困緩和、医学研究、医療サービス、経済開発、社会正義』にかかわるプロジェクトに使われることになる。」(290頁)
 初発の動機は善良であるが、これだけの規模の慈善事業を担うことのできる国家が見当たらない場合、彼らは国家の代理をつとめることになる。
「ウォーク資本主義の下では、社会的不公正や貧困の解決をもう国家に頼ることができない。そこで、社会はご主人さまの食卓から落ちてくるパンくずという慈善に頼ることになる。」(291頁)
 資本主義はひたすら貧富格差を拡大している。今、世界の人口の1%に当たる超富裕層が世界の富のほぼ半分を所有している。「世界で最も裕福な10人の富の合計は7460億ドルとなる。これは、スイス、スウェーデン、タイ、アルゼンチンのそれぞれの国のGDPよりも多い。」(106頁)
 世界ははっきりと超富裕層とそれ以外に二分されてしまった。そして、この超富裕な資本家たちが「資本主義を道徳的に裁定する者として自らを位置付けている」(110頁)。つまり、彼ら資本主義企業の所有者たちは「公共の福利とは何であり、そのために何をなすべきか」の決定権を国家から奪ってしまったのである。
 もう選挙によって代表を選ぶというような面倒な手間をかける必要はない。彼らに政策実現をお願いすればいいのである。それが聞き届けられれば、民主主義を経由するよりはるかに迅速かつ確実に「公共の福利」が実現する可能性がある。
 もちろん、条件がある。「彼らに絶対に損はさせない」という条件である。彼らが超富裕であり続けるシステムそのものには決して手をつけないという条件さえクリアーすれば、彼らは気前よく金をばらまいてくれる(はずである)。
「つまりは、億万長者の贈与は、そもそも彼らを億万長者にしたシステムに根本的な変化が起きないようにすることと、引き換えなのである。」(292頁)

 2019年の香港の民主化闘争のとき、NBAのヒューストン・ロケッツのGM、ダリル・モーリーは抗議デモを応援するメッセージをツイートした。「自由のために闘おう。香港とともに立ち上がろう」と。このツイートを不快に感じた中国バスケットボール協会はこの「不適切な発言」に強く反対して、チームとの交流と協力を停止すると発表し、中国中央電視台はロケッツの放送を禁止した。NBAは40億ドルと言われる中国ビジネスを守るためにモーリーの発言を謝罪するという道を選択した。
「NBAと中国の騒動ではっきりしたのは、いざというときには、ウォークな資本家にとって第一の動機は経済であり、政治はそれが経済を支える場合にしか価値がないということだった。」(305頁)
 これが著者カール・ローズのウォーク資本主義に対する最終的な評価の言葉である。

 以上、本書の所説を紹介してきた。最後に少しだけ私見を書きとめておきたい。
 本書を読んで、私はちょっとアメリカが羨ましくなった。というのは、わが国には「ウォーク資本主義」がまだ登場していないからである。「まだ」というより、これからも登場しないような気がする。日本の資本主義はナイキが戦った当の相手であるドナルド・トランプが代表する「新自由主義」的資本主義の段階にいまだあり、そこから先へ進むようには見えないからである。
 本書巻頭解説で、中野剛志氏は、ウォーク資本主義の萌芽的形態が日本にも現れてきたことを指摘しているけれど、私は日本については「ウォーク資本主義が民主主義を滅亡させる」ことをそれほど気に病む必要はないと思う。日本の民主主義を今滅亡させつつあるのは新自由主義者たちの「意識低い系」資本主義の方であり、たぶんこちらの方が手際よく日本の民主主義に引導を渡してくれると思う。
 むろん、そのことは本書の価値をまったく減ずるものではない。本書がわれわれに教えてくれる最も貴重な情報は、日本にはウォーク資本主義が出現する歴史的条件が整っていないという事実である。日本の資本主義はアメリカのビジネス書がもうリーダビリティを失うほどに世界のトレンドから遅れているという事実である。