『アメリカは内戦に向かうのか』バーバラ・F.ウォルター

2023-04-01 samedi

 原題はHow civil wars start 「どのようにして内戦は始まるのか」。アメリカのことだけを論じているわけではない。「内戦論」である。さまざまな国におけるこれまでの内戦を統計的に分析して、どういう条件が整うと内戦が始まるのかを解説する。
 これまでの世界各地の内戦を分析する箇所での筆致は学術的で抑制的である。しかし、ひとたび話題がアメリカに及ぶと、文体がいささか感情的になってくる。学術的な書き物の場合、筆者が個人的な恐怖や不安をあらわにすることはふつうしない。個人的感情を抑えて論文は書かれなければならないと大学院では教える。もちろん筆者ウォルターも大学教師だから、そういうルールは熟知しているはずである。でも、内戦の切迫が彼女の自制心を乱している。「アメリカにおける第二の南北戦争勃発の危険性に危機感を募らせるようになった」(21頁)からである。
 でも、私はそのことをこの書物の瑕疵だとは思わない。むしろこの「学術的抑制が効かなくなるほどの恐怖」をリアルに伝えてくれたという点がこの本の手柄ではないかと思う。
 日本にいるとなかなか実感できないが、2021年1月6日のトランプ支持者たちの連邦議会乱入はアメリカ市民たちの「法の支配」への信頼を深く傷つけた。現職の大統領が自動小銃で武装した市民に向かって、ホワイトハウスを守るために「今命をかけなかったら、この国は滅亡するぞ」と獅子吼して、連邦議会攻撃を指嗾したのである。
 
 ポリティ・インデックスという指標がある(この本に教えてもらった)。ある国がどの程度民主的か、専制的かを点数評価する。完全な民主主義政体を+10、完全な専制政体を-10として、21段階で評価する。例えば、ノルウェー、ニュージーランド、デンマーク、カナダなどは+10である。これらの国では、国政選挙が公正に営まれ、特定のマイノリティの差別・排除がなされず、政党は国民の意思を適切に代表している。-10は北朝鮮、サウジアラビアなど。国民には為政者を選ぶ権利がなく、為政者は法に縛られることなく、やりたい放題のことができる。
 ポリティ・インデックスが+6から+10の国は「完全な民主主義国家」とみなされ、スコアが-10~-6は「専制国家」とみなされる。そして、その中間に一する+5~-5のスコアの国は「アノクラシー(anoracy)」と呼ばれる。
「アノクラシーでは、国民は多くの場合選挙を通して民主的統治に関与するが、他方で権威主義的な政治権力の多くを手中に収める大統領などが現れることもある。」(38頁)
 アノクラシーは「半民主主義(semi-democracy)」、「部分的民主主義」、「ハイブリッド民主主義」とも呼ばれる。
 ある国がアノクラシーになる仕方は二つある。民主政が崩れて専制政治に移行する過程と専制政治が崩れて民主政に移行する過程である。
 この概念が注目されるようになったのは、政治的不安定をもたらし、内戦が始まるきっかけとなるのは、貧困、民族的多様性、不平等、腐敗などよりも、その政体がアノクラシー・ゾーンにいるかどうかだということが統計的に明らかになったからである。
 つまり、どれほど国が貧しくても、エスニックグループに分断されていても、貧富の格差が大きくても、政治腐敗進行していても、その国が完全な独裁制であれば、内戦は起きにくい。それよりはむしろ政体が流動化したときに内戦は起きる。
「内戦リスクの最も高い国は、最貧国でも不平等国でもなかった(...)。民族的・宗教的に多様な国でも、抑圧度の高い国でもなかった。むしろ部分的民主主義の政治社会において、市民は銃を手にし、戦闘に手を染める危険性が高かった。」(40頁)
 独裁者が倒され、専制政治が終わり、社会が民主化に向かう...という状態を私たちは端的に「よいこと」のように思いなしているけれども、それはどうやら間違っていた。現実には、国が民主化してゆく過渡期に-5~+5の「アノクラシー・ゾーン」に入ったときに、最も内戦リスクは高まる。イラク、リビア、シリア、イエメン、ミャンマーがそうだった。
 その逆のケースもある。民主主義国家が専制国家に「退行」するときも内戦リスクは高まる。ハンガリーがそうだし、ブラジル、インド、そしてアメリカもいまポリティ・インデックスのスコアが下降している。
 アメリカは2021年1月6日の連邦議会へのトランプ派の乱入時点で、ポリティ・インデックスが+7から+5に下降した。「アノクラシー・ゾーン」に踏み入ったのである。
「かくしてアメリカは2世紀ぶりにアノクラシー国家へと変貌した。(...)私たちはもはや最も伝統ある一貫した民主主義国家にはいない。」(183頁)
 これはかなり衝撃的な事実である。アメリカは「いつ内戦が始まってもおかしくない国」になったのである。
 その変化に不安を感じているアメリカ市民もいるだろうし、そんなのは誇大妄想だと笑い飛ばしているアメリカ市民もいるだろう。でも、アメリカがアノクラシー・ゾーンに入ったことは学術的事実である。
 とりあえず、この事実を重く受け止めるアメリカ市民にとっては、喫緊の政治的課題は「どうやって内戦を回避するか」というものになる。
「今後アメリカの課題は、有権者が自らの民主主義が適切に機能し、またそれが身の安全に資すると確信しうるか否か、そして政治指導者の手によってそのための防護柵を再構築しうるか否かにかかっている。」(185頁)
 これから先アメリカが内戦に向かうのを食い止めるために何ができるか?
 こういうタイプの問いを前にしたときに、アメリカ市民にはとりあえず参照することのできる書物がある。『ザ・フェデラリスト・ペーパーズ』である。
『ザ・フェデラリスト・ペーパーズ』は、独立戦争で勝利した後、アメリカ合衆国憲法の批准に至るまでの時期に書かれた85編の連作論文である。筆者はアレクサンダー・ハミルトン、ジェームズ・マディソン、ジョン・ジェイの三人。
 合衆国は13の植民地が集まってできた。13州は独立戦争前からそれぞれに固有の憲法を持ち、行政組織を持ち、軍を持つ独立した政治単位であった。独立後、それまで州の持っていた権限をどこまで連邦に委譲し、どこまで州に残すか、それをめぐって11年間にわたる激烈な論争が展開した。フェデラリストたちは州の権限を剥奪して、強大な連邦政府をつくることをめざしたのだが、その最大の理由は「内戦に備えて」だった。
 独立直後のアメリカ合衆国はイギリス、フランス、スペインというヨーロッパ列強に加えてネイティブ・インディアンとの軍事的対立リスクを抱えていた。仮にこれらのうちのどれかと戦闘状態に入った時に、戦争の主体は誰になるのか。もし、州政府が軍事的な独立を望むのなら、州政府はとりあえず単独で外敵に対処しなければならないことになる。
「もし、ある州が攻撃された場合、他の州はその救援に馳せ参じ、その防衛のためにみずからの血を流し、みずからの金を投ずるであろうか?」そうフェデラリストは問うた。
 あるいは「アメリカが三ないし四の独立した連合体に分裂して、一つはイギリスに、一つはフランスに、一つはスペインの支援を受けて」、代理戦争が始まった場合に、アメリカ国民はどうふるまったらよいのか、そうフェデラリストは問うた。
 独立直後のアメリカ合衆国においては、いずれも蓋然性の高い未来であった。
「ジェームズ・マディソンとアレクサンダー・ハミルトンは、アメリカの民主主義が危殆に瀕するとき、それは派閥の手によって引き起こされるだろうと考えていた。共和国にとって最も危険なのは外敵ではない。支配に執着した国内の敵である。そのように『ザ・フェデラリスト・ペーパーズ』には記されている。」(185頁)
 と筆者ウォルターは書いている。実際にはフェデラリストたちは共和国にとって最も危険なのは「外敵」および「外敵と結んだ州政府」だと考えていたが、現在のアメリカにとって他国からの軍事侵攻も大国による代理戦争の戦場になる可能性もないのだから、内戦の最大のリスク・ファクターが「支配に執着した国内の敵」だというウォルターの見立ては正しい。
 そして、ウォルターによれば、アメリカで起きるかもしれない内戦のかたちはフェデラリストの時代とはかなり違ったものになる。
「18世紀アメリカの指導者は、自らの脅威となる派閥が階級ではなく、民族的アイデンティティになることまでは予期していなかった。1789年当時にあって、少なくとも連邦レベルでの有権者は全員白人男性だった。今日、投票行動を予期する主要因は人種である。黒人、ラテン系アメリカ人、アジア系の3分の2以上は民主党を支持し、白人の6割は共和党に票を投じる。」(186頁)
 アイデンティティ・ポリティクスとは、ある政治家を支持するときの理由が、その政治家の掲げる政策の適否ではなく、自分と同じ「部族」に帰属しているかどうかを基準にする政治的行動のことを言う。ドナルド・トランプはアイデンティティ・ポリティクスの典型である。
「彼はアイデンティティによる政治を堂々と自分の綱領に取り入れた。彼は黒人はみな貧しくて暴力的と決めつけ、メキシコ人はみな犯罪者という。性的醜聞にもかかわらず、キリスト教の価値を語る。」(190頁)
 トランプは国民をその政治的意見によってではなく、帰属集団によって分断し、自分たちの「部族」以外のすべての部族は消えてなくなっても構わないという過激な主張をなして、圧倒的なポピュラリティを獲得した。
 ウォルターによれば、こういう過激な主張が出てくるのは、その集団が、「格下げ」を感じているからである。内戦についての統計的事実としてウォルターは次のことを挙げている。
 内戦を始める集団は一般に自分たちは政治的決定プロセスから排除されていると感じている。でも、「最も強力な決定要因は、その集団の経てきた政治的地位の来歴上の特質にある。すなわち、それまで権力の上位にあった人々が、落ちこぼれてゆくとき、実体的暴力に走る傾向は一挙に高まるということである。政治学者は、この現象を『格下げ』と呼ぶ。」(97頁)
 人を政治的暴力に駆り立てるのは「失う」ことの痛みである。人間を行動に駆り立てるのは「何かを新たに獲得しよう」という動機よりもむしろ「失ったものを取り戻したい」という動機である。
「人は幾年にもわたった耐えることができる。たとえば、貧困、失業、差別などを認容し得る。お粗末な教育機関、機能不全の病院、荒れ果てたインフラをも受け入れるだろう。しかし、当然に自らのものとしてきた地位をある日喪失すること、これだけは許すことができない。21世紀において最も危険な派閥がこれによっている。かつて権力を保持していた集団が力を失ってゆく局面である。」(100頁)
 2012年の国勢調査で、アメリカのその年の新生児のうち非白人が50%を超えた。ヒスパニックとアジア系アメリカ人は増え続け、2045年までに非白人が白人を人口で凌駕する。
「白人市民、とりわけ農村部の多くは、経済的に取り残されてしまったとの疎外感が高まっている。1989年以降、非大卒の白人労働者の生活の質は、ほぼすべての指標で低下している。所得、持ち家、結婚比率などは急落、平均寿命も低下した。」(195頁)
 居住地も偏り始めた。白人系は東北部、中西部、山岳地帯に住み、非白人系は都市部、南部、東西沿岸部に住む。この疎外された白人たちは政府が非白人を優遇し、非白人たちは特別の利得を過剰に要求していると感じて「憤激」している。2016年の調査では、白人の50%が「人種的憤激層」に分類された。(200頁)
内戦の当事者が極貧層ではない事実は記憶にとどめておくべきだろう。かつて特権を保持しながら、そのありふれた幸せを喪失したと感じる人々である。」(200頁)
 彼らは別に今ここで何か具体的な差別を受けているわけではない。でも、大切にしてきたものを「奪われた」と感じている。親の世代までは「ありふれた幸せ」だったものにもう自分たちの手が届かないと感じている。この喪失感、被剥奪感は、幻想のレベルにある。だから、具体的な社会福祉政策や支援策によっては埋めることができない。
 
『ソフト/クワイエット』という映画がある。アメリカの片田舎で、白人至上主義者の女たちが、自分たちよりも少しだけいい家に住み、自分たちよりも何ドルか高いワインを飲んでいる中国人姉妹に対して、激しいいやがらせをしているうちに、もののはずみで殺してしまうという話である。彼女たちが自分たちの暴力を正当化するのは、ここでもやはり「非白人の方がこの社会では優遇されており、かつて自分たちのものだった特権を横取りしている」という病的な被害者意識だった。
 レストランや店舗で非白人に「いやがらせ」をすることと、ほんとうに殺してしまうことの間には、本来なら容易には乗り越えられない心理的な壁があるはずである(高い確率で長期にわたる投獄を覚悟しなければならない)。だが、今のアメリカではその心理的な壁が非常に低くなっている。ふつうの人でも、もののはずみでこの壁を超えることが起こる。そのことの恐怖をこの映画の監督ベス・デ・アラウージョ(母親が中国系、父親がブラジル人)はたぶんリアルに感じているのだと思う。
 
 バーバラ・F・ウォルターもベス・デ・アラウージョも暴力の切迫を感じている。でも、この暴力の淵源は「幻想」のうちにあり、適切な政策的対応によって鎮めることは難しい。
ウォルターは最終章で、アメリカを救うための政策的提言をいくつかしている。「法の支配」「言論の自由と説明責任」「政府の能力」がきちんと機能してれいれば、SNSを通じてのフェイクニュースの拡散が抑制されれば、内戦リスクは逓減する。民主主義が強靭なものであれば、内戦は回避できる。
 まったくその通りだと思う。でも、今起きているのは、民主主義が機能不全に陥っているということである。「民主主義が脆弱になっているから、強靭にすればよい」というのは、「病気になったので、治せばよい」と同じく、正しいが具体性に欠けている。

 読了した後の個人的な感想を言わせてもらえれば、今アメリカで起きつつあることはウォルターが提案するような「正しい政策」で対処できるものではないような気がする。内戦に傾斜する人たちを駆動しているのは、ある種の強力な「分断のナラティブ」である。これに対抗するためには、同じくらい強力な「和解のナラティブ」を創り出すしかないと私は思う。それがどんなものか、私には見当がつかない。でも、アメリカ人はおそらく「和解のナラティブ」を何とかして創り出すと思う。その卓越した能力のうちにアメリカの「復元力(レジリエンス)」は存するからである。とりあえず独立時点でのフェデラリストと州権派の対立も、南北戦争による国民的分断も、アメリカはなんとか乗り切ってきた。今度も、内戦の危機をアメリカは回避すると私は信じている。
 もし、それができなければ、21世紀の前半のどこかでアメリカはこれまで100年以上にわたって占めてきたその卓越した地位を失うことになるだろう。私たちはその日に備えなければならない。
 日本人は自国については内戦リスクについて懸念する必要はないが(日本のポリティ・インデックスはこれでも+10なのである)、アメリカの没落がもたらす衝撃には備える必要がある。たぶん日本の指導層にとっては「考えたくもないこと」だろうけれども、「考えたくもないこと」はしばしば起きる。それは歴史が教えている。