『希望の共産党』というアンソロジーに寄稿を頼まれたので、つねづね申し上げている所論を記した。日本共産党は日本の政治史の文脈の中に置いてみるより、「世界共産党史」の文脈のうちで見る方が、その特質をよく理解できるのではないかという私見を述べた。
日本共産党に私は「市民的成熟」を期待している。そして、それは葛藤のうちに身を持すことによって達成される。共産党が「葛藤に苦しむ政治組織」であることを私は望んでいる。そのような政治組織が今の日本には存在しないからである。自民党は思想的にはほとんど無内容な政党だが(だから、統一教会の綱領や日本会議の綱領を丸呑みしても体を壊さない)、「政権にしがみつくためには何でもやる」という点では全党員がみごとに一致している。公明党は一枚岩のつるりとした政党で、内部での権力闘争はあるだろうが、思想的葛藤はまったくない。立憲民主党以下の野党は党員たちが過去20年間いつどの党籍であったのかの「系譜図」をたぶん政治部の記者でさえ思い出せないくらいに離合集散を繰り返してきた。政治的意見が違うなら「党を割る」ということが心理的抵抗なしにできる人たちに葛藤はない。
その中にあって唯一の例外が綱領的立場にゆるぎない「この看板をおろすわけにはゆかない」政党で、かつ市民的成熟を求められているのが日本共産党であると私は考えている。その「希望」を彼らはどれくらいまっすぐに受け止めてくれるか。
『希望の共産党』に寄稿したのは、以下の文章である。
先日、済州島4・3事件の聴き取り調査のために来日していた真相調査団の金昌厚さんが私の主宰する学塾凱風館の「ハングル書堂」のゲストとして来館された。
ご存じの方も多いと思うが、4・3事件は1948年4月3日に、米軍の軍政下にあった済州島での島民の蜂起に対して、韓国軍、警察、反共テロリストたちが行った虐殺事件のことである。蜂起の中心にいたのは南朝鮮労働党だった。米軍と李承晩政府からは済州島全体が共産主義に親和的とみなされたために女性、幼児、高齢者を含む多くの市民が殺害された。
反共が国是であった戦後の韓国社会では、この事件について語ることは久しく禁忌とされていた。島民たち自身も口をつぐんだまま、記憶を封印してきた。ようやく87年の民主化以後、4・3事件の真相解明と犠牲者への謝罪が始まった。2003年に盧武鉉大統領が、島民に対して初めて公式謝罪を行い、犠牲者のための名誉回復委員会を設置した。以後、紆余曲折はありながら、4・3事件の真相究明と犠牲者への謝罪と補償は今に至るまで続いている。
しかし、金さんが私たちに教えてくれたのは、「犠牲者」に認定されたのは「無辜の市民」たちだけで、蜂起を主導した南朝鮮労働党の活動家たちや、それに共鳴してゲリラ活動に加わった人たちは、軍や警察によって惨殺されたにもかかわらず「犠牲者」にはカウントされていないということであった。韓国では一度「共産主義者」というレッテルを貼られてしまった人たちはもう二度と「市民」とは認められないということである。
4・3事件を主導した南朝鮮労働党は壊滅的な弾圧の後に、1950年に北朝鮮労働党と合併して朝鮮労働党となった。金日成政権下の北朝鮮で「南労党派」として一大勢力をなしたが、のちにほぼ全員が粛清された。彼らは北でも「正規の市民」とは認められなかったのである。だから、この死者たちは、南にも北にも帰るべき祖国を持たず、供養する人もないままに、亡霊のように今も朝鮮半島の上に漂っているのである。
金さんが日本に来て一番驚いたのは、「日本共産党」というポスターを街中で見た時だったと教えてくれた。韓国ではまず「共産」という文字列を街中で見る機会はない。それは触れるだけで身を焦がすような「禁忌」だからだ。
「日本では共産党が国会に議席を持っているんですよね」と金さんは確かめるように言った。その口ぶりはほとんど「日本では幽霊が国会に議席を持っているんですよね」というようなニュアンスに近かった。
金さんの話を聴きながら、アジア諸国における共産主義者と共産主義政党のステイタスの違いについて考えた。
以前、日本共産党から「支持者の中にも党名変更を提案する人がいますが、ご意見をお聞かせください」と訊かれたことがあった。党名は変えるべきではないと私は回答した。この党名を維持していることによってはじめて「比較共産党史」という歴史研究分野が存立し得るからである。
ロシア革命に続いて世界各国に共産党を名乗る政治組織が生まれた。ドイツ共産党、フランス共産党、イギリス共産党、アメリカ共産党などなど。アジアではインドネシア共産党、中国共産党、日本共産党、朝鮮共産党が創設された。それから一〇〇年経った。世界の共産党がそれぞれどういうしかたで歴史的風雪に耐え、また変貌を遂げたかを知るのはとても興味深い政治的イシューだと思う。その推移を見るだけで、その国固有の政治風土が浮かび上がってくるからである。
ほとんどの人は知らないと思うが、1872年に第一インターナショナルの本部はロンドンからニューヨークに移り、アメリカ人フリードリヒ・ゾルゲが書記長に就任した。アメリカが世界の共産主義運動の拠点だった時期があるのだ。大戦間期にはアメリカ共産党が知識人層に強い影響力を及ぼしたが、今はもう見る影もない。ジョージ・オーウェルはスターリン主義を批判して『1984』を書いたのだが、その時オーウェルが直接戦っていた相手はイギリス共産党だった。フランス共産党は対独レジスタンスの中核であり、ノルマンディー作戦以後のドゴール将軍にとっては国内最強のライバルだった。でも、戦後スターリンに追随して国民的支持を失った。インドネシア共産党はアジア最初の共産党で、戦後は一大勢力だったけれど、一九六五年に軍の虐殺で消滅した。その一端は映画『アクト・オブ・キリング』で知ることができる。朝鮮共産党の悲惨な歴史は先ほど述べた通りである。
こうやって一瞥すると、世界の共産党の壊滅と変質の中にあって100年を生き延び、今も国会地方議会に議席を有しており、政策決定と世論形成に強い影響力を及ぼしている日本共産党がまことに例外的な存在であることが知れるはずである。なぜ、日本共産党は生き延び、今も日本の書店には「マルクス」についての大量の書籍が並んでいるのか。
前に中国の新華社から取材を受けたことがある。私と石川康宏さんの共著『若者よ、マルクスを読もう』が中国語に翻訳されて、多くの読者を得たことについてのインタビューだった。私たちの本は中国共産党の「幹部党員への推薦図書」に指定された。なぜ、若者たちにマルクスの思想を噛み砕いて解説した本を書いたのが中国共産党の知識人ではなく、日本人なのか。それが不思議だったのだろう。最初の問いは「なぜ資本主義社会の日本にはマルクス主義を愛読する人がこんなに多く存在しているのか、その原因は何か?」というものだった。その問いに私はこう答えた。
「日本では、マルクスは政治綱領としてよりはむしろ『教養書』として読まれてきたという側面があるからだと思う。つまり、マルクスのテクストの価値を『マルクス主義』を名乗るもろもろの政治運動の歴史的な功罪から考量するのではなく、マルクスの駆使する論理のスピード、修辞の鮮やかさ、分析の切れ味を玩味し、読書することの快楽を引き出す『非政治的な読み』が日本では許されていたということである。
だから、マルクスを読むことは日本において久しく『知的成熟の一階梯』だと信じられてきた。日本では、若者たちはマルクスを読んだからといってマルクス主義者になるわけではない。マルクスを読んだあと天皇主義者になった者も、敬虔な仏教徒になった者も、計算高いビジネスマンになった者もいる。それでも、青春の一時期にマルクスを読んだことは彼らにある種の人間的深みを与えた。少なくとも「与えた」と信じられていた。
政治的な読み方に限定したら、スターリン主義がもたらした災厄や国際共産主義運動の瓦解という歴史的事実から推して、『それらの運動の理論的根拠であった以上、マルクスはもう読むに値しない』という判断を下す人もいて当然である。だが、日本ではそういう理由でマルクスを読むことを止めたという人はほとんどいなかった。それはマルクスの非政治的な読みが許容されてきたからである。それが世界でも例外的に、日本では今もマルクスが読まれ続け、マルクス研究書が書かれ続けていることの理由の一つだろうと思う。」
日本における共産党の現実的な影響力についての質問にはこう答えた。
「日本共産党はマルクス主義政党だが、選挙で共産党に投票する人たちの多くはその綱領的立場に同調しているというよりは、党の議員たちが総じて倫理的に清潔であり、知性的であり、地域活動に熱心であるといった点を評価しているのだと思う。
日本では1920年代以後現代にいたるまで、マルクス主義を掲げる無数の政治組織が切れ目なく存続し、マルクス主義に基づく政治学や経済学や社会理論が研究され、講じられてた。マルクス主義研究の深さと広がりという点では、日本は東アジアでは突出している。マルクス主義者でなくても日本人の多くはマルクス主義の用語や概念を熟知しており、そのスキームで政治経済の事象が語られることに慣れている。それがわれわれのものの考え方に影響を与えていないはずがない。」
このやり取りから知れると思うけれども、私は日本共産党が今日まで生き延び、存在感を示すことができた最大の理由は日本共産党が「共産主義の独占者」でなかったことにあると思っている。そういう考え方をする人が他にどれだけいるか分からないけれども、私はそう思っている。
貿易のビジネスでは「総代理人(sole agent)」というものがある。その業者を経由してしか輸入できない独占的な代理店のことである。多くの国で、共産党は「マルクス主義の総代理人」たらんとした。そして、マルクスの読解やマルクス主義の綱領の解釈について決定し、「異端」を審問する権利を占有しようとした。レーニンとスターリンが国際共産主義運動を領導していた時代には、その指示の唯一の「窓口」であろうとした。世界各国の共産党がその特権的地位を求め、それを手に入れたせいでやがて衰退し、滅亡していった。私の眼にはそう見える。
その中にあって日本共産党が生き延びることができたのは、「マルクス主義の総代理人」ではなかったからである。なろうとしても、なれなかった。それは上に書いたように、日本には共産党以外にもマルクス主義を掲げる多様な組織や運動体が存在し、共産党の公式解釈以外にもマルクスについて多様な解釈や理解が並立していたからである。
そのような環境の中に置かれていたおかげで、日本共産党は「自分たちのニッチ」を探し出し、市民に向かっておのれの政治的有用性を訴え、その支持を懇請するという仕事を余儀なくされた。「総代理人」の免状を手に入れ、その地位に安住してしまったよその国の共産党にとっては不要な仕事だ。でも、日本共産党はその「余計な仕事」を果たさなければならなかった。結果的にはそれがよかったのだと思う。それがこの政党にある種の「市民的成熟」をもたらしたからである。
金さんを驚かせたように、日本共産党が世界でもきわめて例外的な「国会に議席を持つ共産党」であり得るのは、日本共産党が「歴史を貫く鉄の法則性」によってその身元を永代保証された政党ではなく、そのつどの市民の支持のうちに足場を求めてきた政党だからであると私は思う。いわば、その「弱さ」が手柄だったのである。
これから日本共産党がどういう組織を編成し、どういう運動を創り出してゆくのか、それは党員たちが決めることであり、私の関知することではない。でも、100年生き延びてこられたのは日本共産党が「原理的正しさ」より「市民的成熟」を選んだせいであると私は考えている。だから、その歴史的経緯をただしく評価すれば、このあとの進むべき道もおのずと明らかになると私は思う。
私たちが成熟について知っている最もたいせつな経験則は「人は葛藤のうちで成熟する」ということである。それは組織についても同じだと思う。深い葛藤を抱えた組織は、そうでない組織よりも成熟するチャンスが多い。全党員が同じような顔つきをしていて、同じような言葉づかいで語り、指導者の命令に整然と従う一枚岩の政党を日本共産党は理想にしてはならない。そんな政党は短期的には効率よく稼働するかも知れないが、葛藤がない組織は成熟することができない。だから、いずれ環境の変化に適応できずに死滅するだろう。
私が日本共産党に求めるのは「葛藤を通じて成熟できる組織」であることである。別に私がよけいなことを言わなくても、すでに日本共産党の方たちはそのことを歴史的経験を通じて熟知しているはずである。
(2023-02-02 13:43)