凱風館では寺子屋ゼミというものを行っている。大学院の社会人ゼミの続きとして、毎週一回道場に座卓を並べてゼミを開いている。コロナ以後はオンラインでも受講できるようにしたが、先日の今季初日には珍しく40人近くが道場まで来てくれた。
ゼミ初日は毎期「このゼミは何のために開いているのか」を話す。言うことは毎年違う。今年は「自分のボイス」という話をした。
私がゼミ発表をしてもらうのは勉強してもらうことが主な目的ではない。高校生までの自由研究ならそれでいい。「こんなにたくさん本を読んだ。資料を調べた」という成果を示せば、教師はそれを評価してくれるだろう。でも、私のゼミはそれ以上のことを求めている。それは発表することを通じて「自分のボイス」を獲得してもらうことである。
「自分のボイス」というのは聞き慣れない言葉だと思う。「自分のボイス」とは私たちが自分固有の思考や感情を語ることができる「声」のことである。その声で語ると、自分の中の深いところにぼんやりわだかまっていて、いまだ輪郭定かならぬ星雲状態にある思考や感情をそのまま加工せずに表出することができる、そんな声のことである。
「自分のボイス」を手に入れると、私たちは言葉を操る時に「自在を得る」ことができる。「自在を得る」というのは決して「立て板に水を流すように話す」という意味ではない。まったく逆である。「自分のボイス」は輪郭定かならぬアイディアを語れる声のことであるのだから、「自分のボイス」を得た人は小さな声で話すことができる。言いよどむことができる。口ごもることができる。前言撤回することができる。
そんな言葉が他人に伝わるだろうかと不安になる人もいると思う。でも、心配するには及ばない。ちゃんと伝わる。そういう言葉は頭に入るというよりは身体にしみ込むからだ。断片的なまま、一義的でないままに、聴いた人の身体のどこかに残る。そして、長い時間をかけて消化吸収され、その人の身体の一部分になる。そして、ある日何かの折に、ふとその人の口を衝いて、「自分が言いたかったこと」として再生されるのである。私たちの多くはそういう時間のかかる、複雑なプロセスをたどって「自分のボイス」を手に入れる。
「自分のボイス」によって語られた言葉がその場でただちに共感や理解を得ることは難しい。けれども、長い時間をかけて世界に広がり、多くの人々の中に浸み込む(可能性がある)。
私はそういう声をゼミ生ひとりひとりが手に入れて欲しいと思っている。それがゼミを主宰している理由の一つである。
でも、「自分のボイス」を持つことを今の日本社会はまったく勧奨しない。自分のオリジナルな言葉づかいを獲得することのたいせつさを誰も教えない。家庭でも、学校でも、職場でも、「自分のボイス」で語ることを誰も支援してくれない。逆につねに「大きな声で、はっきりと、わかりやすく語る」ことが求められる。
だが、そういう語り口では、自分に中の「まだ言葉にならない言葉」を表出することはできない。
「大きな声で、はっきり、わかりやすく」言えるのはできあいの定型句だけである。そして、そんな出来合いの定型句でも、繰り返し語っているうちに身体化するのである。出来合いの定型句が「自分のほんとうに言いたいこと」だと信じ込んでしまうのである。そういう人は周りにいくらでもいる。
だから、私のゼミでは「大きな声で、はっきり、わかりやすく」語ることは求められない。今年はそんな話をした。
(2022年4月7日)
(2022-12-29 13:22)