分野の境界を超えた論考で読み手の知的好奇心を刺激する哲学者・内田樹さん(71)。「とにかく勉強することが好き」といい、その本質を「自己解体」であると語ります。2016年に他界した兄・徹さんから伝えられた大切な言葉とともに、貫いてきた学びの姿勢を聞きました。
―文章を書く際、「想定読者」と位置づける存在がいるそうですね。
内田 ものを書くときに想定している読者は2人いて、一人は小学生の頃からの友人である平川克美君。もう一人は2歳上の兄・徹です。兄は6年前に亡くなりましたが、今でも、兄が読んで納得してくれるものを書くということを心がけています。
―お兄さんは、どんな存在だったのですか。
内田 小さい頃はやたら構ってくるので、「うっとおしい兄だな」と思っていましたけれど、中学生くらいからだんだん仲良くなりだしました。特に、兄がギターを弾くようになって、ロックに熱中してからですね。兄がシングル盤を買ってきて、僕を部屋に招き入れて、「とにかくこれを聴け」とうるさく勧めるのです。キャロル・キングも、エルヴィスも、ビートルズも、ジョン・コルトレーンやマイルス・デイヴィスも、全部兄が「いいからこれを聴け」と言って、僕に無理やり聴かせたものです。でも、結果的にはそれが僕にとっての音楽的な滋養になった。
あとは映画ですね。自分で観て面白いと思った映画はどこがよかったのか何度も何度も話すので、僕も観ないわけには行かない。
さらに親密になったのは20代の終わりころです。兄は早稲田に入ったのですが、1970年の学生運動の時代ですから、ろくに授業もない有様でしたから、大学の水に合わなかったようで半年ほどで学校に行かなくなりました。そのあと、父親が経営していた建設機械の会社で数年間働いた後、30歳頃に一人で起業しました。
横浜に小さなオフィスを構えたけれど、社員が一人もいないので、大学院生だった僕に「電話番をやってくれ」と頼んできました。僕は博士課程に進学した頃で、時間の自由がきいたので、週3回ほど事務所に通いました。電話番と言っても、起業したばかりですから、ほとんどかかって来ない。これ幸いと、無人の静かなオフィスで、ひたすら本を読み、翻訳をし、論文を書いていました。
昼になると兄が外回りから戻ってきて一緒に昼食を食べに出かけ、帰り道でお茶をしたり、本屋に寄ったりして、話が盛り上がると、そのままオフィスで夕方まで話し込んでいたこともあります。
兄はどんな話題でも面白がってくれました。ですから、自分の研究しているテーマでも、ちゃんと聴いてくれた。僕はその頃すごくマイナーなフランスの政治思想何や哲学を研究していたんですけれど、そういうまったく関係のない話でも熱心に聴いてくれた。ついこっちも図に乗ってどんどん話してしまう。何を話しても受けてくれるという「甘い客」だったんです。だからのちに本を書くようになった時に自然と兄を想定読者に書くようになりました。
―お兄さんは内田さんをどう見ていたのでしょう。
内田「保護者」という感覚も多少はあったんと思います。僕は6歳のときに心臓を患って、小学校のときはほとんど「運動禁止」という虚弱児でした。だから、兄にはこの弱っちい弟を自分がかばってやらなければという意識があったんだと思います。それから年を重ねるなかで二人は違う方向へ進んでいくわけですが、手塩にかけて育てた弟が、自分の知らない知恵をいろいろ身につけてはしゃべってくるのがおもしろいという感じだったのかな。
―そんなお兄さんから言われた、印象的な言葉があるそうですね。
内田「おまえは『弟子上手』だよな」と言われました。十数年前のことだと思います。20年ほど前から兄や平川君ら仲良い友人たちと、年に2回くらい箱根温泉の宿で集まって、温泉に入って、美味しいものを食べて、飲んで、麻雀をしてという催しを始めました。そのおしゃべりの間に何かのはずみで兄が口にした言葉でした。「おれとおまえで一番違うところは、おまえには先生がいたけれど、おれにはいなかったということだ」と。
―その言葉が心にとまった理由は?
内田「なるほどな」と思いました。それまでそんなこと一度も意識したことがなかったのですが、言われてみるとまさにその通りで、腑に落ちた言葉でした。
僕はその頃に「先生はえらい」(ちくまプリマ―新書、2005年)という本を書いているのですが、兄の言葉の影響もあったかもしれません。
その本に書いたのは、「師」というのは、弟子の側が自分で作り出すある種の教育的な幻想だということです。「この先生は自分が一生かけて努力しても足元にも及ばないほどの叡智と技芸を会得している人だ」と信じて学ぶ人間と「この先生ははたして全幅の信頼を寄せるに足るだけの器量の人物なのだろうか」と疑いの眼差しを向けながら学ぶ人間とでは、同じ時間だけ努力した場合に、身につくものが決定的に違ってくる。
「偉大な師に仕える弟子」という位置取りは、自分の成長のためにはきわめて有効だと僕は自然に理解していたのですけれど、兄に言わせると、そんなことを思うやつは滅多にいないということでした。事実、兄は、ついに生涯「師」と呼べる人に出会えなかった。もちろん、それなりの見識を備えた人物には何度か出会っていると思います。でも、兄は「本当にこの人を信じてついていってよいのか」という疑念を振り払うことができなかった。
僕はそういう疑念をあまり持たないんです。ある人を「先生」と呼ぶためにこちらからうるさい条件をつけない。「この条件をクリアしたら先生と呼んでもよい」というのはものを学ぶ側が採ってよい姿勢ではないと思うからです。
卓越した師とは、弟子が「この世にそんなものがあるとは知らなかった知」を授けてくれる存在です。ですから、学ぶに先立って、弟子の側から「これを教えてください」とか「この程度の知識や技芸を会得したいんですけど」というふうに要求できるものではない。そして、僕が知らないこと、僕がそれを知らないということさえ知らないことに世の中は満たされているわけです。ですから、ある意味で、「人生至るところに師あり」ということになる。
―相手を選ばず教えてもらう姿勢が重要だということですか?
内田「相手を選ばず」じゃありませんよ、もちろん。「この人は師とする値する人だ」ということが直感された場合だけです。ただ、「師とするに値する」かどうかを判定する基準を僕の側があらかじめ用意しているわけではないということです。「私が定めるこれこれをこういう条件を満たしたら、私はあなたを師と認める」というような話ではない。直感的に「この人を『先生』と呼ぼう」と思う。
師というのは、弟子がすでに持っている知識や技芸を量的に増大してくれる存在ではなく、「そのような知識や技芸が存在することさえしらなかった知識や技芸」を授けてくれる存在です。だから、師に就くというのは、ある意味では、それまでの自分とは別の人間になると決意することです。師弟関係は絶えざる「自己解体・自己刷新」をもたらすものです。よく勘違いされますけれど、僕は「自分らしさ」とか「オレなりのこだわり」とか全然ない人間なんです。
―むしろ「内田樹」というあり方を確立されている人という印象がありました。
内田 全然違いますよ。「自分らしい生き方」なんて僕は興味ないんです。とにかく勉強すること、人にものを教えてもらうことが好きなんです。専門家に話を聞く時には、口をぽかんと開けて、ひたすら聴いています。人の話を自分の手持ちの知識の枠組みに落とし込んで」「ああ、それなら知っている」と思うことはできるだけ自制する。話の中の自分がこれまで知らなかったことに注目して、「それについて、もっと教えてください」とお願いする。だから、誰からでも話を聞きます。たまたましばらく一緒に時間を過ごすことになった人からでも、できるだけ「僕の知らない話」を聞き出します。
―その蓄積が論考の土台になっているのですね。
内田 別に話のネタを仕込むつもりで話を聴いてるわけじゃないんです。ほんとうに興味があるんです。僕が知っていることはごく限られています。でも、人の話を聞くとい「自分が何を知らないのか」についてはだんだんわかってくる。ところどころが「前人未到」なので白く抜けている「暗黒大陸の地図」を作図しているようなものです。人の話を聴きながら、おのれの無知を可視化しているんです。
だから、僕がいまいろいろな形で発信しているのも「知を授ける」という趣旨のものではありません。僕自身これまでさまざまな先生に就いて、知識や技術を授かってきたわけですから、今度はご恩返しにそれをできるだけ多くの人にお伝えする。先人から受け取ったものを後から来る世代に「パスする」という感じです。
―分野を問わず学び続ける姿勢はどこから生まれるのですか?
内田 純粋な好奇心というよりはむしろ「これを知らないと世界の成り立ちや人間の本質がわからない」という切迫感に追い立てられて勉強してきたように思います。大学院では反ユダヤ主義のことを集中的に勉強していたのですが、それは紀元前から続く反ユダヤ主義というものをどうして西欧文明は清算できなかったのか、その理由を知りたかったからです。この世にはさまざまなレイシズムがありますけれど、最も歴史が古く、規模が大きく、残忍なのは反ユダヤ主義です。なぜ人間はある種の集団に対して、これほどの憎しみを抱くのか、それを理解しなければ、怖くて生きられないという切迫感が動機だったと思います。
―なぜ、自身を「壊す」という勉強を重視するのですか?
内田 勉強するのは自我を強化するためではありません。逆です。自己解体・自己刷新のために勉強するんです。自分が知っていることを人に誇示するのって、まったく意味がないと思うんです。だって、自分がもう知っていることなんだから。そんなことをしても自分の成長には1ミリも資するところがない。そんな暇があったら、自分が知らないことについてもっと勉強して、自分を壊してゆきたい。自分を固めてしまったら、新しいことを学べなくなるでしょう。絶えず変化し、より複雑なものになってゆくというのは生物の本質なんですから。
いまはもう中等教育から自分のキャリアについて精密な「キャリアプラン」を子どもに作らせていますね。将来どういうところに進学して、どういう資格を取って、どういうところに就職して・・・ということについての具体的な見通しを、できるだけ早い段階で決定させようとしている。僕はそんなことはしてはいけないと思います。だって、中学生の子どもが知っている職業なんて、本当にごくわずかでしょう。実際には子どもたちがその名前も知らないような無数の職業が存在する。そして、かなり高い確率で、今の子どもたちがその名も知らない職業にいずれ彼らは就くことになる。
アメリカでの研究によると、今年小学校に入学した子どもたちの65%は大学卒業後には「今はまだ存在しない職業」に就くんだそうです。そうだろうと思いますよ。今の子どもがなりたい職業の第1位は「ユーチューバー」だそうですけれど、20年前にはそんな職業存在しなかったじゃないですか。
だから、子どもたちに「将来、何になりたいの?」というようなことをうかつに訊くものじゃないと思います。先日、ある中学校の講演で「子どもに『将来の夢は?』というような質問をうかつにしないように」という話をしたら、親たちも先生たちもかなり驚いていました。でも、子どもに将来の夢をうっかり語らせてはいけない。あまり深い考えなしにであれ、一度「将来...になりたい」というようなことを口にしてしまうと、子どもにとってそれが呪縛になって、自分の人生を限定してしまうリスクがあるからです。でも、子どもたちはこの世の中にどれほど多様な仕事があるかほとんどぜんぜん知らないわけです。その時点でうかつに「自分の夢」を語らせると、子どもたちはそれ以外の可能性を視野から遠ざけてしまうかも知れない。子どもたちにはできるだけ開放的な未来を保証してあげることの方がずっと大切だと思います。
―社会の先行きが見えず、しっかりした将来設計がない不安という意識もあるのでは?
内田 今の子どもたちが将来どんな仕事に就くことになるかなんて、誰にもわかりませんよ。だから、「しっかりした将来設計」なんか立てることはできないと思います。
人が仕事に就くときって、だいたいは向こうから声がかかるものなんです。「ねえ、ちょっと手を貸して」と言われて、つい「いいよ」と返事をして、気がついたらその道の専門家になっていたということって、実際によくあるんです。別にその仕事が「将来の夢」だったわけでもないし、自分にその適性や能力があるとも思っていなかったけれど、他にやる人もいないみたいだから、じゃあ自分がやるかというふうにして人は「天職」に出会う。僕自身これまでやってきた仕事はだいたいそうでした。気がついたら、教師になって、翻訳家になって、物書きになって、武道家になっていた。
―キャリアの可能性を広げるためにも、常に心を開いた状態にしておくことが大事だと。
内田 そうですね。僕は仏文の助手を8年間やっていました。でも、たいして仕事なんてないんですよ。電話番とコピーとりくらいで。でも、せっかく「やるかい?」と言われて「はい」と即答して始めた仕事ですから一生懸命やりました。だから、就職が決まって辞めるときには、先生たちから惜しんでもらえました。研究成果で褒められたわけじゃなくて、幹事役が評価された。「内田君は本当に宴会の仕切りがうまかった」って。
でも、それだって侮れないもので、僕が関西で就職できたのも、大学院に集中講義にいらした関西の大学の先生の接待を命じられて、一週間、毎晩院生たちを引き連れて先生を接待したせいなんです。その先生が僕の研究業績なんかよく知らないまま「宴会の座持ちがよい」点を高く買ってくれて、「うちの大学に来ないか」と呼んでくれたんです。あの時に「集中講義の先生の接待なんか僕の仕事じゃありません」と断っていたら、その先はなかったわけで、人生先に何があるかなんてほんとうにわからないです。
(2022年3月31日)
(2022-12-29 13:05)