アメリカと中国のこれから『月刊日本』ロングインタビュー

2022-11-21 lundi

― アメリカのバイデン大統領と中国の習近平国家主席がそれぞれ新体制をスタートさせ、米中覇権争いは新たな局面に突入しました。

内田 世界のこれからについては三つのシナリオがあります。「アメリカ一人勝ち」「米中二極論」「多極化・カオス化」の三つです。ここ数年は「米中二国が覇権を競う」という二極論が支配的でしたけれど、僕は「多極化しつつ、米中の競争ではアメリカ優位」というシナリオが現実的ではないかと思っています。アメリカが抱えている最大の問題は「国民の分断」ですけれど、これについてはアメリカに過去にいくども分断を克服した「成功体験」がある。この点で言えば、危機に対する「レジリエンス」(復元力)は中国よりアメリカのほうが強いように見えます。
 アメリカは建国以来「自由」と「平等」という二つの統治原理の葛藤に苦しんできました。自由と平等はもともと相性が悪い。「水と油」の関係です。個人が最大限の自由を追求すれば、弱肉強食の社会となって平等は失われ、平等の実現のためには公権力が市民的自由をどこかで制約しなければならない。
 自由と平等のどちらかを採り、どちらかを捨てるというわけにはゆかない。そのさじ加減を間違うと、国民的分断や場合によっては内戦の危機にさえ直面することになります。でも、アメリカはそのたびに「和解の物語」を編み出して国民の統合を維持してきた。
 いまのアメリカは「準内戦」レベルまで分断が深刻化していると言ってよいと思います。しかし、過去にこういう危機を何度も乗り越えてきた経験があります。そして、分断を乗り越えて和解を達成したときに、国運の上昇が訪れることも知っている。ですから、アメリカは現在の分断もいずれ乗り越えると思います。
 アメリカは分断と和解の両極端を往還してきました。単一の統治原理に居着くことなく、絶えず葛藤に苦しむことからアメリカは政治的エネルギーを汲み出し、それがアメリカン・デモクラシーの原動力だと言ってよいと思います。
 それに対して、中国の統治原理はもっとシンプルです。「中華皇帝による独裁」か「群雄割拠の内戦状態」か、それがデジタルに交代する。「独裁と内戦の中ほどでバランスをとる」というようなことはありません。中央のハードパワーが強い間は帝国が維持され、弱まれば辺境が反乱を起こす。この交代劇は古代から現代まで変わりません。
 いまの中国は「無謬の共産党」による一党独裁体制ですから、アメリカのような統治原理上の矛盾はありません。中国共産党による中華人民共和国建国の最優先課題は何よりも全国民の平等の達成でした。市民的自由の達成ではありません。まず権力者、富裕層を倒し、社会的弱者、貧民に資源を分配すること、それが最優先されました。
 毛沢東の中国は「国民すべてが等しく貧しい」という仕方でしたけれども、その理想を実現した。しかし、鄧小平の「先富論」はそれを逆転しました。「先に豊かになれる者たちを富ませ、落伍した者たちを助ける。富裕層が貧困層を援助することを義務にする」というロジックで、人民の間に自由競争を導入したのです。その結果として年率二桁を超す経済成長を達成したわけですが、同時に、一方では超富裕層が生まれ、他方では半数の国民が貧困のうちに取り残されるという格差社会になった。革命で廃絶したはずの階級が事実上甦ってしまったのです。
 公権力が介入して、富者の懐に手を突っ込んで、貧者に分配しないと社会的平等は達成できないけれど、それをすれば経済成長は止まるリスクがある。中国はここで「自由と平等の葛藤」にはじめて直面したわけです。問題は、過去にこの同じ葛藤に苦しみながら、それを解決したという成功体験を中国の統治者は持っていないということです。自由と平等の間の「ほどよい落としどころ」を見つけて、帝国という「器」を修理しながら維持したという政治的経験がない。中国のレジリエンスは弱いと僕が見るのは、この経験の欠如です。
 習近平はこの統治上のリスクを察知して、強大な「皇帝」になることで市民的自由の抑制する道を選びました。でも、この強硬路線は一時的には奏功するでしょうけれど、遠からず限界を迎えます。経済活動の自由を抑制すれば、成長は止まるし、言論の自由を抑制すれば、知的イノベーションはもう起きないからです。
 レジリエンスは国家という「器」を維持する力ですが、それは中国よりアメリカのほうが強いと言ってよいと思います。現在の政治状況だけ見れば、民主主義ゆえに混乱を深めるアメリカより、独裁体制のもとで安定している中国のほうが優勢に見えますが、長期的にはレジリエンスの差が米中の明暗を分けることになると思います。

― ただ、今のところアメリカはレジリエンスを発揮できていません。

内田思い出して欲しいのは、フランス革命が「自由・平等・友愛」という三つの原理を掲げていたということです。自由と平等という食い合わせの悪い原理を調停するために、友愛という「第三の原理」を持ち込んだ。これはまことにすぐれた着眼点だったと僕は思います。
 自由も平等も本質的にはかなり暴力的な理念です。自由を突きつめれば「万人の万人に対する闘争」の自然状態(無政府状態)になるし、平等を突きつめれば全体主義監視国家になるリスクがある。どちらも人間にとってたいへん息苦しい社会に行き着いてしまう。個人の自由が最大化すれば、貧富の差・強者弱者の差が歴然と現れる。平等実現の大義を掲げて政府に強大な権力を委ねれば、市民的自由は否定される。どちらか一方だけを選ぶということはできません。
 友愛(fraternité)は同じ共同体の仲間に対する気づかい、親切のことです。鄧小平も「先富論」で「富者が落伍者を助ける」ことを自由の条件に挙げていました。でも、残念ながら、市民間の「相互支援」は「義務」として権力者が命令できることではありません。それは「惻隠の心」という人間性の根幹から自然発生的に生まれ出るものです。個人に内在する、「人として当然」という行動規範のことです。法律で定めることも、利益誘導することもできない。でも、この友愛が調停しない限り自由と平等の矛盾は解決不能なのです。
 自由と平等と友愛はそれぞれ実践する主体の次元が違います。自由の主体は個人です。平等の主体は公権力です。友愛の主体は、こう言ってよければ、その中間にある共同体です。自由主義の暴走と平等主義の暴走を、中間共同体の常識が抑制する。「理屈としてはそうかも知れないけれど、どうしても納得できない」「それを言っちゃあおしまいだぜ」という理屈にならない人としての情が緩衝材になって自由と平等の矛盾を和らげることができる。
 自由も平等も脳がこしらえあげた理屈ですが、友愛は思想ではなく、感情です。だから、どんな理屈を言い立てられても、「呑み込めない」とか「腑に落ちない」とか「鳥肌を生じる」とかいう身体反応が出てくる。それは原理の暴走を抑止する人間的な「アラート」なんです。
 だから、友愛がしっかりとした厚みを持つ社会、つまり分厚い中間共同体を持つ社会は自由と平等の対立を緩和する道筋があり、中間共同体が痩せ細った社会では、自由と平等が正面衝突して、社会的分断が避けがたい。厚みのある中間共同体を持っているかどうか、それがレジリエンスの鍵になると僕は思います。

―米中覇権争いでは経済力や軍事力の競争に加えて、「民主主義vs.専制主義」など価値観の競争も行われています。

内田 国力を決定するのは、軍事力や経済力のような「生の力」だけではありません。むしろ、国際社会における「指南力」だと僕は思います。「人を集める力」「人を惹きつける力」と言ってもいい。これは目に見えない力ですから、数値的に比較することはできません。でも、広々とした風通しのよい世界像を提出できる国、海外の人たちから「あの国で暮らしたい」と思われている国は、長期的には高い国力を期待することができます。
 ソ連や中国はかつて「理想の国」だと思われていた時期がありました。世界各国に「スターリン主義者」や「毛沢東主義者」がいて、自国の国益よりも、ソ連や中国の国益を優先的に配慮する方が世界にとって「よいこと」だと信じていた人たちが何百万人もいた。その「あこがれ」が軍事力・経済力以上にソ連・中国の国際社会におけるプレゼンスを基礎づけていた。でも、今、「プーチン主義者」や「習近平主義者」を国外に見出すことはまずありません。そういう人たちが自国の世論を形成し、政治決定に影響を及ぼして、ロシアや中国を側面から支援するということはほとんどない。
 この点ではアメリカの方にアドバンテージがあります。かつての「自由の国」という輝きは失せましたけれども、それでも、「アメリカにはチャンスがある」と信じている人たちが世界中にいて、アメリカはそういう人たちを歓待するシステムが一応は整っている。移民によってできた国ですから、「異邦人を歓待すれば、いいことがある」という成功体験はアメリカ人の種族の思想のうちに書き込まれている。それを忘れて「アメリカ・ファースト」などということを言い出したせいで、ここまで国力が衰微したということに気づいているアメリカ人も少なからずいるはずです。現に、21世紀に入ってから、ノーベル賞の化学・物理・医学生理学部門で受賞したアメリカ人の38%が移民出自でした。アメリカの科学技術上の優位は世界中から才能が集まってくるという開放性に担保されている。
 だから、プーチンや習近平がトランプの復権を切望するのは当然なのです。海外からの移民を「災い」とみなすような人々が政権の座にあれば、アメリカの国力はひたすら衰退することを彼らは知っているからです。
 今中国は「中国標準2035」や「千人計画」で海外から優秀な人材を集めようとしています。でも、このやり方では超一流の才能は集められないと思います。本当に創造的な才能は処遇や賃金よりも、自分の研究を世界中に発表できる権利、世界の科学者たちと自由に意見交換できる権利の方を最も重んじるはずだからです。ノーベル賞級の学者が「あなたの研究成果は政府機密なので、自由に発表することはできない」という条件を突きつけられて、「待遇がいいから」という理由で中国に行くということはあり得ません。
「中国の論文数がアメリカを抜いて世界一になった」と報道されましたけれど、自然科学のノーベル賞受賞者はアメリカのほうが桁違いに多い。21世紀に入ってからだけでアメリカは77人が受賞していますが、中国は2015年に抗マラリア薬を発見した一人だけです。この研究環境では超一流の才能は「待遇がいいから中国に行く」という選択はしないでしょう。それよりは知的により刺激的な環境を選ぶはずです。
 そもそも知的イノベーションを担うのは気質的に「統制を嫌う人間、管理になじまない人間」です。あらゆる手立てを使って国民を監視している中国に創造的な才能が「魅力を感じる」ということがあるかどうか。これは気持ちの問題ですから、断言はできませんけれども、僕は難しいと思います。
 ご存じの通り、2027年から中国は急激な人口急減局面に入ります。ですから、「人を集めること」は国家的急務です。生産年齢人口が激減しますから、もちろん労働力が要りますけれど、それ以上に科学技術上のイノベーションをもたらす才能を集めなければならない。
 歴史的に見れば、高度の中国文明を慕って、アジア全域から人が集まったという時代は何度もありました。中華皇帝の発する「王化の光」に浴そうと、辺境の民が唐土めざしてやってきた。それを歓待して、豊かな下賜品を与えて国に戻した。そのようにしてかつて中国はグローバルな指南力を発揮して、大国の地位を維持してきました。果たして習近平が過去の成功体験を思い出して、「歓待の国」をめざして国を作り替えることを決断するかどうか。僕は可能性は低いと思います。それなら、香港や新疆ウイグルですでに実践していているはずだからです。香港には700万人、新疆ウイグルには2500万人の中には中国の未来を担い得る「有為の人材」が何万人もいるはずですが、習近平は彼らの市民的自由を弾圧し、国民監視を強化することで、彼らが中国を捨てて、海外に可能性を求めることをむしろ促進してしまった。自国民にさえ見捨てられる国が海外から「有為の人材」を集めることができるでしょうか。
 でも、この課題は日本でも同じなのです。すでにアジアでは少子化が進む日本、中国、韓国、台湾の間で人材の争奪戦が始まっています。でも、日本は経済力が衰微していますから、もう待遇上のメリットはない。雇用条件のよいところを探すアジアの若者にとって、もう日本は韓国より中国よりも魅力がなくなっている。この状況で日本がなお人を集めようと思ったら、「異邦人を歓待する国」になるしかない。日本社会は市民的自由と人権を尊重し、異邦人を同胞として歓待し、できる限りの政治的権利を保証するという国際的評価を得る。それが「人を集める」力になります。「歓待の国」という評価され得られれば、多少賃金が安くても世界から人は集まります。自然は温和だし、治安はいいし、ご飯は美味しいし、芸能でも観光でも豊かな資源があります。あとは「歓待」の気持ちだけです。要するに僕たち自身の手で日本を「感じの良い国」にする。身も蓋もないような結論かもしれませんが、日本復活の処方箋はそれしかないと思います。

― ただ、欧米の衰退と新興国の台頭という世界的な潮流は変わらないように見えます。このまま欧米の指南力は失われていくのではありませんか。

内田 欧米の影響力低下というトレンドはたしかに今後も続くと思います。中国やロシアは欧米の価値観や政治モデルを公然と批判するようになっていますし、それに唱和する国々も世界には多い。しかし、だからといって中国やロシアが欧米に代わって指南力を発揮しているわけではありません。
 中国の経済力や軍事力は毛沢東の時代とは比べものにならないほど強くなっていますが、中国の指南力は毛沢東時代のほうがはるかに高かった。当時は世界中に毛沢東主義者がいて、毛沢東思想を学び、自国を中国みたいに改造しようとしていたわけですから。日本にもいたし、フランスにもいた。それがどれほど妄想的なものであったとしても、中国がある種の未来志向を牽引していたのは事実です。でも、いまの習近平にそのような指南力はありません。習近平自身は自分を毛沢東に比肩する偉大な指導者だと自称していますし、国内的には毛沢東並みの強権体制を形成していますが、「習近平主義者」は世界のどこにもいない。その差に習近平は気がついていません。それがいずれ致命的になるだろうと思います。
 欧米も含めて、最近では暴力的なナショナリズムが息を吹き返しています。移民排斥や人種差別も公然と口にされるようになった。でも、そうやって偏狭なナショナリズムが幅を利かせる国には、もう海外から「新しい血」は入ってきません。むしろ、創造的な才能はそんな国からは離脱してしまう。ナショナリズム、自国利益第一を声高に主張する国の言い分はたしかに生々しいほどリアルですけれども、世界を導く力はありません。国際社会において嫌がられたたり、恐れられたりはするでしょうけれども、敬意を持たれることはないし、グローバル・リーダーシップを執ることもできません。

― アメリカの衰退に伴い、今後の国際社会は多極化・多層化していくという論調が強まっています。その中で中国やロシアは「アメリカ一極支配」を批判して「多極世界」を強調し、非西側諸国を取り込もうとしています。

内田 欧米の政治理念が影響力を失ってしまったのは事実ですが、「俺たちの国は好きにさせてもらうぜ」というてんでんばらばらな行き方では世界的な課題に取り組むことはできません。パンデミック、異常気象、アフリカの飢饉などはトランス・ナショナルな協力体制を構築しないと対処しようがありません。「自分の国さえよければそれでいい」という考えでは、そういうトランスナショナルな課題はすべて放棄されてしまう。でも、そのコストをいま負担しておかないと、いずれ地球的規模での災厄が起きたときに、そこで稼いだわずかばかりの国益を全部吐き出しても間に合わないということになる。
 多極化モデルは一見すると合理的な解のように見えますけれど、長期的に見れば「間尺に合わない」。多極化モデルを採用すれば、個々の国民国家の自己利益が最優先され、排外主義や人種差別や宗教差別に歯止めがかからなくなる。多極化モデルによって世界が平和になり、人間にとってより住みやすい場所になると僕はまったく思いません。心の狭いやつだと思われるかも知れませんが、「人としてこれだけはしてはいけない」、「人としてこれはすべきだ」という常識にオルタナティブはあってはならないと僕は思っています。

― アメリカは建国以来「マニフェスト・デスティニー」を掲げて自国の正義を広め、一極モデルの世界を目指してきた国です。そのアメリカが簡単に多極化モデルを認めるとは思えません。

内田 アメリカは「自由と民主主義の伝道師」として、時には武力に訴えてでも世界中に自由や民主主義を輸出してきました。でも、モンロー主義の時も、第二次世界大戦前の非戦論がさかんだった時も、トランプの「アメリカ・ファースト」の時も「アメリカがよければそれでいい」という内向きの態度をとる時もありました。アメリカは態度を変えます。でも、それがアメリカなんです。「自分さえよければそれでいい」というのは「自由」の原理の過激化したものですし、「全世界がアメリカのように豊かで民主的であるべきだ」というのは「平等」の原理が過激化したものです。ここでもやはりアメリカは自由と平等という相反する統治原理の間で揺れ動いているのです。
 最近のアメリカの政治学者の論調は、もう「伝道師」稼業は止めにして、「中国やロシアなどの『不愉快な隣人』と共存していくしかない」という方向にまとまってきています。これはアメリカが倫理的に成熟して、他国の統治原理を尊重するようになったというのではなく、単に「自由と民主主義の伝道師」の仕事を続けるだけの国力がなくなったからだと思います。

― そうすると自由や人権、民主主義という価値観は世界的に衰退していくのではありませんか。

内田 世界が多極化・カオス化する以上、欧米にルーツをもつ近代市民社会論の影響力は落ちてゆくでしょう。非欧米圏からは「人権とか民主主義とかは普遍的価値ではなく欧米のローカル・ルールにすぎないんだから、俺たちに押し付けてくれるな」という異議申し立てが盛んに行われるようになっています。でも、繰り返し申し上げますけれども、力のある人間は弱者を収奪してもよい、奴隷化してもよいというような考え方が世界標準になるということはこれから先も絶対にないと僕は思います。
 近代市民社会論の基本にある「人として正しい生き方」についての常識を僕は受け容れます。それは、自由と平等と友愛という三つの原理の葛藤のうちで暮らすことです。それが人として「まっとうな生き方」であると僕は思っています。僕はこの常識を撤回する気はありません。
 100年単位の長期スパンで見ると、世界は少しずつですけれど、だんだん「人間的」になってきていると思います。もちろんいまも戦争はあり飢餓で苦しむ人もいるし、独裁者が市民を逮捕したり拷問したり殺したりすることも世界中で起きています。それでも、100年前、200年前に比べれば戦争の死傷者の数も、餓死者の数も減ったし、拷問や不法拘禁や人種差別や性差別もずいぶん抑制されました。総体として、世界は少しずつ住みやすいものになっている。総じて欧米の近代市民社会論がめざしていた方向に推移している。
 ヨーロッパは紀元前から2000年間ずっと戦争をしてきました。その経験を踏まえて「人がこれ以上殺し合わないためには、どうしたらいいのか」についてひねり出したアイデアが近代市民社会論です。観念的な社会論ではありますけれども、流血と暴力の生々しい経験から出てきたものであることは事実です。この先も一時的なバックラッシュは繰り返しあるにせよ、最終的に世界は近代市民社会の実現に向かって不可逆的に前進を続けてゆくだろうと僕は思っています。

― 世界が多極化・多層化する中で、それぞれの国は自国の価値観を強調しています。その中で、日本は命懸けで守るべき価値観を見失っているように思います。

内田 残念ながら、今の日本に「命がけで守るべき価値観」はありません。だから、アメリカのように自国の価値を広めることも、中国やロシアのように他国の価値観に反発することもできない。悲しいけれど、これがいまの日本の実相です。
 戦後日本の統治原理上の二本柱は憲法1条の象徴天皇制と憲法9条の平和主義です。つねづね申し上げているように、天皇制と立憲デモクラシーは統治理念として矛盾しています。主権国家であることと軍隊を持たないことの間にも矛盾がある。この葛藤に苦しむことを通じて日本は国として成熟するはずだったのです。でも、残念ながら、これは日本人が選んだ葛藤というよりはむしろアメリカ人がセットしてくれた葛藤です。だから、いまだにその葛藤が血肉化されていない。
 そのせいで、日本には国としての「大黒柱」になるものがありません。戦後の焼け跡に、その辺から拾ってきた材料で立てられたバラックのようなものです。高度成長のせいで、途中でずいぶん立派なバラックにはなりましたが、シャンデリアとかステンドグラスとか豪華なソファーとかは並んでいても、どこにも大黒柱がない。玄関もない、床の間もない。バラック暮らしに慣れて、大黒柱の立て方も鴨居のつけ方も畳の敷き方も障子の貼り方も忘れて、とうとう日本らしい家がどういうものか分からなくなってしまった。悲しい話です。

― 内田さんは『日本辺境論』(新潮新書)で、日本は辺境国として先進国の文明を受け入れることで発展してきたと書いています。しかし、いまの日本は「辺境」であることすらできなくなっている気がします。

内田 辺境では、ケーキのように土着文化の土台(生地)の上に舶来の文明(デコレーション)をトッピングして「ハイブリッド」を創るんです。土台とトッピングがうまくなじむと結構いい感じのものができる。でも、いまの日本はそういう「辺境のスキーム」すら使えなくなっています。土着文化の「ケーキ生地」そのものがもう薄くなって、ぼそぼそになってしまったからです。ぺらぺらの、味もないケーキ地の上に、どんな外来のトッピングをしたって、美味しいものはできません。だから、問題は、どうやってもう一度土着の文化を取り戻して、外来のものを載せることのできる厚みのある、味わい深い「ケーキ生地」を作るかということなんです。
 ご存じの通り、僕は合気道や剣術のような武道を稽古し、能楽を稽古し、禊祓いや滝行などの行もしていますけれど、これは日本の伝統文化を次の世代に引き継がなければいけないという使命感を持ってやっていることです。日本の伝統文化は、、行住坐臥の身のこなしのうちに、それこそ服の着付けとか、儀礼とか、箸の上げ下ろしに至る日常の一挙手一投足のうちに宿っています。ですから、伝統的な身体の使い方、心の使い方を学び知れば、おのずと日本人らしい考え方感じ方は身につくはずなんです。
 この伝統文化がさきほど言った「土着のケーキ生地」になる。その生地に厚みと奥行きがないと、辺境の文化は開花しない。ネットでどれほど排外主義的な言動を繰り返そうが、街宣で外国人を罵倒しようが、そんなことをしても伝統文化の継承には何の役にも立たない。一人一人が、先人から「これは日本にとって大切なものだから、なくさないでね」とパスされたものがあるはずなんです。それは武道だったり、伝統芸能だったり、祭祀だったり、着物の着付けであったり、田んぼの耕し方だったりする。一人一人が自分に託された「パス」をしっかり次世代につなげてゆくこと、それが日本人にとってたいせつなことだと思います。

― ミルフィーユのように、国民一人一人が薄い生地を重ねて、土着文化の土台を分厚くしていくしかない。

内田 みんなで手分けして、畳を敷いたり、障子を張り替えたりしているうちに、いつか小汚いバラックを質素な日本家屋に建て替えることもできるかも知れない。その家が建ったときに、国の大黒柱になるような日本の価値観もおのずとかたちづくられると思います。
(11月4日 聞き手・構成 杉原悠人)