毎年この時期になると村上春樹さんのノーベル文学賞受賞を祝う「予定稿」を書く。最初に頼まれたのは15年ほど前になる。この世に「予定稿」というものがあることをその時に知った。たしかにニュースが飛び込んできてからでは長い原稿を書く余裕はない。だから予定稿が用意される。これは没になってもちゃんと原稿料は頂ける。「去年と同じものでも構いませんよ」と担当記者は言ってくれるのだが、それでは相済まないので、毎年ちょっとずつヴァージョンアップしたものを書き送る。
以前、『村上春樹にご用心』という本を出した時に、その前年に書いた予定稿をそのまま掲載したことがある。そのようなふざけたものを活字にするなとある文芸評論家にずいぶん叱られた。でも、「起きたこと」について「どうしてそれは起きたのか」を解釈するのと同じくらいに「起きてもよかったはずなのに起きなかったこと」について「どうしてそれは起きなかったのか」について考えることもまた思考訓練として有用である。ならば「使われなかった予定稿」もまた無用のものではあるまい。
文壇にはじめて登場したころ、村上作品は70~80年代のポップで軽快な都市生活者のための文学だと言われた。その評語は今となってはまったくお門違いであることがわかる。現に、村上春樹は世界中の「ポップでも軽快でも都市的でもない人たち」のうちにも多数の読者を獲得したからである。現代日本作家で、これだけ多くの外国語に訳され、人種も宗教も階層も異にする読者たちの支持を得ている人は例外的である。なぜ、村上文学はこれほどの普遍性を持ち得たのか。
私の仮説は、それは彼が「存在しないもの」との交渉を書き続けたからだというものである。「現に目の前にリアルに存在するもの」について書かれた作品の場合には、一読して「この作品は自分を読者に想定していない」と確信できることがある。そこで行き交うジャルゴンも意味ありげなしぐさもまったく理解できない作品の場合、私たちはすぐに本を閉じてしまう。けれども、仮に遠い国の、遠い時代のものであっても、登場人物たちが「あり得ない場所」で、「存在しないもの」に出会って、傷ついたり、癒されたり、別人に変貌したりするという物語はある種の普遍性を持ち得る。なぜなら、「存在しないもの」に対しては、どの時代の、どこの国の人も(無縁である度合いにおいて)等距離にあるからである。逆説的だが「存在しないもの」のリアリティーは歴史的・地理的な限定を超えるのである。
村上文学では「この世ならざるもの」、人知を以ては計りがたいものが私たちの世界に繰り返し侵入してくる。そして、愛する人を拉致し去り、人を取返しのつかない仕方で傷をつける。でも、これは有史以来世界中の人びとが経験してきたことの実感なのだと思う。
「存在しないもの」は「存在するとは別の仕方で」私たちにフィジカルに切迫してくる。「存在しないはずのもの」が現にリアルに、タンジブルにそこにある時に、それとどう向き合うのか、どうやってそれと折り合いをつけることができるのか。そのような問いについていくつか有用な経験知を人類は伝えてきた。ルーティンを守ること、礼儀正しいこと、「ありもの」で急場の用を便じること、抑制的であること、世の大事の多くは「原理の問題」であるよりも「程度の問題」であると知ることなどなど。私たちが「成熟」の指標としていることの多くがここには含まれる。そのような実践知の意味が身に沁みる人たちは世界に散らばっている。彼らが村上文学の読者を形成しているのだと私は思う。
(週刊金曜日10月13日号)
(2022-10-19 14:57)