自分のヴォイスをみつけるためのエクササイズ

2022-08-06 samedi

ずいぶん前になるけれども、自分のヴォイスをまだみつけていない青年がいた。彼が自分のヴォイスで自分について語れるようになることが急務であるという状況だったので、3年ちかくにわたって「作文の個人授業」をした。最後の課題に返信がないままこの文通は中絶したが、それはたぶん彼がもう「エクササイズ」を必要としなくなるだけ自分の文体をしっかり手にしたからだろう。あるいは最後の課題が彼にはとても書きにくいものだっただけの理由かも知れない。
作文の会というところで「自分のヴォイスをみつける」という演題で話すことになったので、HDの筐底から昔のやり取りを掘り出して読んでみた。彼からの課題の「答案」は抜いて、私が出した課題だけをここにリストしておく。
作文教育について一助となるといいのだが。

O川さま
 こんにちは。内田樹です。
 今日は遠いところを来てくれてありがとうございました。
 君に必要なのは、身体と、言葉の身体(というものがあるのです)の修業だと僕は思っています。
 自分のvoiceを発見するまで、長く楽しい修業をしてください。
 では、最初の課題を出します。
 課題(1)「嘘みたいなほんとうの話」
 自分が経験した「嘘みたいなほんとうの話」。できたら、まだ誰にも話したことのない話を書いてください。経験したことをそのままリアルに。脚色なしに記述してください。教訓とか、まとめとか、要りません。事実だけ。
 これは主観性を削ぎ落とした文章を書く訓練です。
 コツはロックンロールといっしょです。Cut in, cut out いきなり始まり、いきなり終わる。
 がんばってね。

O川さま
 おはようございます。内田樹です。
 課題文さっそくご提出ありがとうございました。
 うむうむ、なかなか興味深い作文でした。
 文体修業ということで始めた課題ですけれど、これはきわめて興味深いO川君の「無意識」の語りのようですね。
 いや、べつに構えなくてもいいんです。
 君の心象風景がけっこう投影されているのかなと思いながら読みました。
「禁止の多い環境」からことが始まる。
「愛情の対象」と心が通じない。
「愛情の対象」が理由もわからぬままに去ってしまう。
 亀がいなくなった話が「嘘みたいなほんとうの話」に選択されるということは、ふつうはありません。だって、よくあることだから。
 でも、O川君がこの記憶を思い出したということは、君にとっては象徴的な意味のある出来事だった(と思った)からだと思います。印象に残ったのは、たぶんこの出来事が「自分について(自分の未来について、自分の宿命について)何かを語っている」とO川少年が直感したからだと思います(と勝手に僕が思っているだけですから、気にしないでね)。
 どうしてO川少年はこの出来事を記憶したのか、そこに何を直感したのか。
 別に急ぐ話ではないので、それをときどき、ぼんやり考えてみてください。
 では、課題その2を出します。
 
 課題その2は「僕がこれまで会った中で、もっとも酔っぱらっていた人の話」です。
 字数は自由です。がんばってね。

O川さま
 こんにちは。内田樹です。
 課題提出、ありがとうございました。
 今回のはとっても面白かったです。
 E口の酔い方とK吉くんのうれしがりぶりがみごとに活写されておりました。
彼らは僕の前ではふだんはそんなには酔わないです(さすがに多少は緊張しているんでしょうね)。でも、僕が帰ったあとに「やれやれ、じゃ飲み直そうか」ということになってるのかも知れませんね。O川君にとっては「しんのすけ」に毎週かよっていたころが、いちばん気分的に安定していたのかもしれないですね。
 課題その3は「ものすごくまずいものを食べたときの話」です。
 これはけっこうネタがあるんじゃないかな。

O川さま
 こんにちは。内田樹です。
 課題3たしかに拝見しました。
 このラーメン、まじでほんとうにまずそうだね。「化粧室の臭い」というのが想像するだに肌に粟を生じるほどまずそうでした。
 まずいものを食べる話が文体修業にすぐれているのは、「うまい」と感じるときは、うまいものを食べていることの総合的な体験を楽しみますが、「まずいもの」を食べているときは、ほかのことを全部切離して、「まずさ」だけに意識を集中しようとするからでしょう(たぶん)。だって、店も汚いし、サービス瑠も悪いし、音楽も変だし、トイレが匂うし・・・というふうに「総合的に」まずさを記述しはじめたら、もう我慢できないじゃないですか。
そういう「食べ物以外の要素」の干渉を排除して、純粋に「まずさ」にだけ集中して、「それだけに耐える」ことに努力を振り向けるのが「まずいもの」を食べる経験を語ることの手柄でありましょう。めいびー。
 そういうふうに「あるトピック一点」に特化してものを書くというのは、たいへん重要な文章修業なのであります。
 
 課題4は「フィクション」です。
「朝起きたら、僕は・・・・になっていた」という文章から始まって、その日の前半のできごとを創作してください。 ・・・・は何でもいいです。
 でも、昆虫とか爬虫類とかはあまり「僕は」というような主語は使わないので(なったことないから知らないけど)、哺乳類がいいかなと思います。
 ただし、オオアリクイとかパンダとかラクダとか、そういう何を考えているのかよくわからない動物の方が描き易いと思います。犬とか猫だとそれになった自分がなんとなく想像できますからね。
 がんばってね。

O川さま
 こんにちは。
 就職したそうですね。おめでとうございます。よかったね。
 こつこつ一歩ずつがんばってください。
 課題拝読しました。文章が格段にうまくなっていますね。
 課題の意味はもうおわかりだと思うけれど「自分ではないもの」に言葉を仮託した方が人間はものを「ていねいに観察する」ようになるということを知ってほしかったからです。
 この「動物憑依文体」は古くは漱石の『我が輩は猫である』、カフカ『変身』から大島弓子『綿の国星』,サラ・イネス『誰も寝てはならぬ』に至る無数の先行事例がありますが、文学史の教えるところでは、この手法を最初に意識的に採用したのはモンテスキューだそうです。
 モンテスキューは『ペルシャ人の手紙』というフィクションで、「パリにはじめてやってきたペルシャ人」になりすまして、そこで「ペルシャ人」が見聞きしたパリジャンたちの奇妙きてれつな生活態度やものの考え方をびっくりしながら故郷にあてて手紙を書いたのです。
 パリの人間がパリの人間を記述すると、どれほど中立的に書こうとしても、どこか冷笑的になったり、思い入れ過剰になったりします。でも、「ペルシャ人」が「パリの人はこんなふうだよ」と書くと、それはただ客観的に記述するだけで批評的に機能する。そういう仕掛けです。
 現代でも、「タイムマシンに乗って過去からやって来た人」が現代人の生活を見てびっくりするし、現代人は昔の人のものの考え方やたたずまいを最初のうちは笑っているけれど、そのうちにだんだんその真価に気づいてゆく・・・というパターンのテレビドラマとかマンガとかいっぱいありますよね。
「異人」のまなざしから自分たち自身を記述するというのは、とてもよい知性と想像力の訓練になります。
 というわけで、今回の「牛」から見た人間世界は、「牛の生理」(眠気とか空腹とか痛覚とか)にO川くんがかなり想像的に同化していたので、とてもリーダブルなものになりました。あとは、「僕」が自分がメスだと気づいたあとも一人称が変わらないところが面白かったですね。あれが途中で「あたし」とかになると面白かったかもしれないけれど、作り過ぎになるかもしれない。
 今回の課題のポイントは「異人」の身になってみるということができるかどうかでした。
そのときの「身になる」というのは文字通り「その人の身体」に入り込んで、いっしょに眠くなったり、お腹が減ったり、さびしくなったり、穏やかになったり・・・という身体実感を共有することです。
 それができていたので、今回の課題はグッドジョブでした。
 さて、次回はその応用問題です。今度は逆です。僕たちの世界をぜんぜん知らない人に、僕たちの世界の成り立ちを教えるという「説明」の文章訓練です。
 今回は素材を指定します。「サッカー」です。
 サッカーというものを生まれてから一度も見たことがない人(冬眠していたとか、宇宙から来たとか、そういう人です。日本語は理解できます)がテレビのサッカーの試合を見てO川君に「この人たちは何をしているの?」と訊いてきました。
 O川君はいっしょにテレビを見ながら、その「異人」にサッカーのグラウンドで、あの22人はいったい「何をしているのか」、観客たちはどうしてあんなに興奮しているのかを説明しなければなりません。タッチラインもオフサイドもコーナーキックも、なあんにも知らない人にサッカーの「楽しさ」を教えるのです。
 字数は制限ありませんけれど、できれば「試合開始後5分くらいに訊かれたので、ハーフタイムが終わるまでに説明し終えた」くらいの時間で済ませてください。
では〜。

O川さま
 おはようございます。内田樹です。
 いま奈良の多武峰というところに来てます。外はぱらぱらと雨が降っていて、同行の人たちはもう山に登って能の準備をしています。僕は夕方から出番なので、今はがらんとした宿に残って、メールを読んだり、短い原稿を書いたりしています。
 さて、今回の課題、とっても面白かったです。
 この「地の言葉」が使えるというのは、ほんとうに強みですね。
「地の言葉」というのは、言葉だけじゃなくて、みぶりや表情やトーンや服装や職業やしばしば価値観や美意識やイデオロギーまで「込み」で口にされるものだからです。
ロラン・バルトはこの「地の言葉」のことをsociolecte「社会的方言」と呼びました。
アイアンマンのパワードスーツみたいに「すぽん」とそこにはまりこむと、あとは自動的に言葉が出てくるんです。
 いったん学習して身体化すると、「地の言葉」をつかうと、いつもと違う言葉づかい、違う視点、違う文脈で世界を叙すことができる。
 これは大きなアドバンテージです。
 でも、これは同時に「ヴォイスへの道」のひとつの落とし穴でもあります。
 だって、どんどんあふれるように言葉が湧き出てくるわけですから、「おお、これが私のヴォイスか!」ってつい思っちゃうんです。
 この言葉づかいさえしていれば、いくらでも言いたいことが言えるんですからね。
 でも、それはほんとうに「言いたいこと」なのか。
 パワードスーツに装備されている「出来合いの言葉」を再生し、「他人の言葉」を模倣しているだけではないのか・・・
 そう考えるとけっこう話がややこしくなってきます。
 でも、いいんです。
「ヴォイスとは何か?」という問いはそんなに簡単に答えが出るものじゃないか。のんびりやりましょう。
 それに「地の言葉」の持っている生成力と破壊力は侮れないですからね。その言葉の「適切な使い方」を覚えるのは自動車の運転技術を覚えるのと同じようにたいせつなことなんです。
では、次の課題。

課題(6)ははじめての課題ですけれど、「対話」を書いてもらいます。台詞だけ。芝居の戯曲と同じです。でも、「ト書き」は要りません。登場人物の名前も性別も年齢も職業もあらかじめ規定する必要はありません。ただ対話だけ。もちろん、オチも教訓も要りません。前の言葉に反応して、次の言葉が出てくる。ただどんどん対話が進み、時間が来たらぷつんと切れる。
最初の台詞だけ決めておきますね。
「誰待ってるの?」
では、がんばってね!

O川さま
 こんにちは。内田樹です。
 課題拝受しました。
 ちょっと時間が空きましたね。こういうものは時間をあまりかけない方がいいです。
課題が来たら即答する。時間があくほど「それなりのものを書かないといけない」というプレッシャーが無意識にかかってくるんです。
 これはほんとうの話です。学者が陥るピットフォールのひとつなんです。
 ある論文を書いたあと、次の論文までに間を空けると「世間の人はそれだけ時間をかけたクオリティのものを期待しているに違いない。その期待に応えねば・・・」と力んでしまうのです(別に誰も期待してなんかいないんですけどね)。
 そして、力めば力むほど書けなくなって、ますます時間が空いて、ますます「期待が高まっているのでは・・・」(高まってないってば)と力んでしまうのです。
 そうやってついに「続き」を書くことができずに終わった研究者は君が想像するより何倍もたくさんいます。
 ですから、あまり工夫しないでいいです。
 課題が出ても、なかなか時間が取れないこともあるでしょうから、1週間くらいをめどにして「即答」をめざしてください。
「即答なんだから、多少できが悪くても文句言わないよね」と思って書いた方が気楽ですし(実際に文句言わないし)。
 そして、こういうものは、だいたいあまり考えないで「即答」した方が出来がいいんです。
「即答」して書き上げたものにあとから添削をするのは構いません。その作業が楽しければした方がいい。でも、とりあえず最後まで一気に書いてしまう。
 文の長さについては何の規定もないわけですから。
 だから今回の課題なんかだって、O川君が「どんどん課題くるけど、そんなに時間ねえんだよお」と思っていたら

「誰待ってるの?」
「関係ないでしょ」

で終わってもぜんぜん良かったんです。

「誰待ってるの?」
「あんたじゃないわよ」

「誰待ってるの?」
「ニホンゴワカリマセン」

 でも、なんでもよかったんです。
 課題の「虚を衝く」遊びも回答者には許されているんですよ(これ試験じゃないから)。
 ヴォイスをみつけるためのエクササイズだから。

 では、課題(7)です。
 今回は「フィクション」を書いてもらいます。
 最初の一行は
「それは僕がこれまで見たことのないタイプの男だった」
 です。そして、その男がどんな様子の男であったのかを描写してもらいます。
 ただし条件があります。
 それはその男の描写において記述している「僕」は「視覚」「聴覚」「嗅覚」「触覚」「味覚」のすべての感覚を動員すること。
 短くてもいいし、長くてもいいです。
 たいせつなのは視覚情報だけに依存しないで、人物像が描けるかどうかです。
 ではがんばってね。

O川さま
 おはようございます。内田樹です。
 課題提出さっそくありがとうございます。
 でも、O川くんからの「説明」もあった方が僕は面白いです。
どういう意図で書いたのかということと、実際に書かれたものの間には大きな「齟齬」が生じるのです(当たり前ですけれど、「ヴォイス」は「意図」によっては制御できませんから)。その「齟齬」が大きければ大きいほど「ヴォイス」が育って来ているということです。
だから、「説明」は「自分の書いたものをうまく説明できている」ことによってではなく「自分が書いたものをうまく説明できていない」度に基づいて評価されることになります(別に評点をつけているわけじゃないですけど)。
 次回からは「自作への注釈」もぜひ書き添えておいて下さい(短くてもいいですよ)。

 だから、今回は「説明をつけないことにした」というO川君の選択が僕には興味深かったです。
「今回のはなんとなくうまく説明できないなあ」と思ったんじゃないかな。
 それは「意図」によって書き物が制御できなくなってきている徴候です。
 村上春樹さんは自分の作品にいっさい「あとがき」とか「解説」とか付けませんけれど、それは「あれ書いたのオレじゃないし・・・」となんとなく思っているからだと思います。
 書いたものを自分の「所有物」のように扱うことができない。隅から隅まで、全部自分がコントロールしているものだと思えない。自分の書いたものが、自立した、独自の生命をもつもののように思えると、説明できなくなる。
 そして、それを説明するためには「お話をもうひとつ」新しく書く以外になくなる・・・ということじゃないかと思います。
 今回の書き物はそういう点でも過去最高にいい感じに仕上がっています。
 視覚情報に依拠しないで、触覚や嗅覚を動員して描写すると、不思議な「リアリティ」が出てくるでしょう。虚構なのにリアリティがある。どうしてそういうことが起きるかというと、  O川君の身体はO川君が産まれてから経験したことを全部記憶しているからです。どんな作り話を考えても、その「記憶」のアーカイブから取り出すしかない。それは「ほんとうに経験したこと」なんです。ただ、一度も言葉にしたことがないだけで。だから、それを経験したことを頭は忘れている。でも、身体は覚えている。
「ヴォイス」というのは、頭が忘れているけれど、身体が覚えていることを語る装置です。 たぶん頭が覚えていることの一億倍くらい(もっとかな)身体は記憶しています。それはぜんぶ「使える」ものなんです。使っていいんです。というか、使うべきものなんです。
 では、次の課題ですけれど、ここでちょっと一休みします。
 課題はここで出しますけれど、しばらく「寝かして」おいてください。
 締め切りは一月後にします。
 それまでこの課題のことは「忘れて」おいてください。締め切り三日くらい前になったら「あ、課題があった」と思い出して、それから書いてください。そういうルールです。
今回も「創作」です。どんな途方もない話でも結構です。長さも文体も自由。
最初の一行は「僕は生まれてから一度も経験したことがないような痛みで目が覚めた」です

O川さま
 こんにちは。内田樹です。
 課題ありがとうございました。返信が遅くなってすみませんでした。
 今回の課題、面白かったです。ずいぶんのびのびと書いてますね。やっぱり「虚構」の方が書きやすいんだ。
「補助線」というのは、古典でいうところの「本歌取り」のことですね。それはものを書くときのわりと伝統的な手法なんです。
「本歌」はどこでもいいです。プロットを取ってもいいし、キャラクターを取ってもいいし、1シーンだけを取ってもいい。そういう「下敷き」にするものがあったほうが、むしろ自分のオリジナリティを発揮しやすい。
 大瀧詠一さんはそれを「下敷きソング」と呼んでいました。意図的に「この曲のここを使う」と思って使う場合もありますけれど、気づかないで使う場合もある。そりゃそうですよね。何十年も浴びるように音楽を聴いてきたわけですから、身体に入ってしまっている。
 前に大瀧さんの作った『うなずきマーチ』というコミックソングはデイヴ・クラーク・ファイブのWild Weekend が下敷きですよねと書いたら、大瀧さんから「それを発見したのは世界で内田さんが最初です」というメールが届きました。大瀧さん自身も、自分が数え切れないくらい聴いてきたWild Weekend を下敷きにして作曲していたことに気づかなかったのでした。
そういうものなんですよね。
 これもよく書いていることですけれど、村上春樹の『羊をめぐる冒険』の本歌はレイモンド・チャンドラーの『ザ・ロング・グッドバイ』です。その本歌はスコット・フィッツジェラルドの『ザ・グレート・ギャツビー』。その本歌はアラン・フルニエの『ル・グラン・モーヌ』。その本歌もきっとあるはずです。
 これはどれもプロットの構造が同一なのです。
 世界的な作家でもちゃんと「補助線」を使って仕事をしているのです。そういうものに頼るのは当たり前のことなんです。
 文体は誰でも最初はパスティーシュ(pastiche)=模倣から入ります。この人はずいぶん自由自在に書いているなあと思われる人の文体を真似するのです。
 僕は最初に文体を真似をしたのは北杜夫でした(「ドクトルまんぼう」シリーズの方の北杜夫です)。これは小学校高学年から高校生くらいまで続きました。そのあと、吉本隆明、廣松渉、椎名誠、橋本治、村上春樹、高橋源一郎たちの文体からはつよい影響を受けました。だから、当時の書き物を見ると、そのとき自分が誰の影響下にあったのか、すぐわかります。
 でも、そういう下敷きがだんだん重なって、そこに上書きされてゆくうちに、誰にも似ていない自分だけの文体が形成されてくるんです。
 ほんとに。
 だから、誰かの影響を受けるということはできるだけ頻繁に、できるだけ集中的に経験したほうがいいのです。
「本歌取り」の真骨頂は(今回の課題もそうでしたけれど)、虚構の人物をして語らせることです。自分が経験したこともないことをあたかも自分の経験であるかのように語ることで、僕たちの経験は深まるのです。
 というわけで、課題はこのあとも虚構が続きます。
 次なる課題は「不思議な職業の人」です。
 設定を決めておきます。最初の一行はこれです。
「とても感じのよい人だった。でも、何をしている人なのかさっぱり見当がつかない。」
 ここから始まります。そのあとは自由です。
 では、がんばってください。

O川さま
 こんにちは。内田樹です。
 今回も面白かったです。「とても感じのいい人」という条件と、「何をしているのかわからない人」という条件を両方クリアーするキャラクターというのは、かなり想像力を働かせないと思いつきませんからね。
 今回のホームレスの造形はなかなか深みがありました。
 こういう描写は日頃人間をていねいに観察していないとなかなかできないんですよ。
 ものを書くことのいちばん大きな利点は、「これをいつか誰かに話してみたい、何かのかたちで書き残しておきたい」と思えるような不思議な味わいのする出来事に出会うチャンスが増えるということです。不思議なことに。
 自分が経験したことを話す相手が誰もいないという人は、目の前で「とんでもないこと」が起きてもそれに気づかないということがあります。
 逆に、人間の観察や記憶の力は、それを「誰かに物語るときがある(それを聴いてくれる人がいる)」という期待があるときに強化される。
 そういうものなんです。

 さて、次回の課題はちょっと趣向を変えて「人生相談」です。
O川君は若いので「人生相談をする側」になることがほとんどで、される側になることってあまりないと思います。
 ですから、今回は「人生経験豊かな大人」になったつもりで(そうですね、50歳くらいになったつもりで)、迷える年少者に適切なアドバイスを差上げてみてください。

 質問はこんなのです。

「私はもうすぐ30歳ですが、今までの人生で何一つ何かを達成したという実感がありません。このまま人に語れるような実績がなにもないままに30歳を超えてしまうのかと思うと、心細くなります。これから何をしたらよいでしょう。アドバイスください(29歳・女)」

 なんて、いわれてもねえ。がんばって悩んで回答してください。

O川さま
 おはようございます。内田樹です。
 課題ありがとうございました。
 面白かったです。「人生相談」なので、新聞の人生相談みたいに、回答者がずらずらと回答するパターンを想定していたんですけれど、対話形式になっていましたね。
 あ、こういうのもあるのかと思いました。なるほど。

 人生相談される人とされない人がいます。
される人は、「聞き上手」ということになるんですけれど、それはO川君が言うとおり、「相手に反論しない」「一般論に落とし込まない」ということを気づかう人です。
 もう一つたいせつなポイントがあって、それは「相手が話し終わったあとに、ちょっと元気になる」という実効性です。O川君が「最後に気持ちよく帰ってもらうこと」というのがそれですね。
 人生相談してくる人って、基本的に「それは自分で解決するしかないんじゃないの。人に聞いてもしょうがないよ・・・」という問いを向けてくるものです。
 でも、それができずに人に聞いてくるのは、「正解」が欲しいわけじゃなくて、「自分で解決できるだけの体力・精神力がないので、ちょっとそれを補給して・・・」という泣訴なわけです。
 だから、話をふんふんと聞いてあげて、「ちょっと休んだら?」と肩を叩いてあげるとか栄養ドリンクを一本買って上げるとか、それくらいでも人生相談した「甲斐はあった」ということになるんだと思います。
 すべての人生の難問は最終的には本人が「身銭を切らない」と片づきません。
 でも、難問に直面している人のほとんどは疲れ果て、追い詰められ、切るほどの身銭がない。だから、優先順位は「まず切るほどの身銭が身につく」方法をいっしょに考えて上げるということになります。
「いっぱい水を飲んで、よく寝なさい」とか「部屋の掃除をしたら?」とか「早寝早起きしたら?」とかいうアドバイスは質問にはまったく答えていないにもかかわらず有効なのはそのせいです。睡眠も、早起きも、部屋の掃除も、どれも「身銭」をちょっとだけ増やしますからね。ちょっとだけでも「切れる身銭」が身につくと、人は「身銭を切る」ということの意味がわかってきます。「なるほど、これを貯めればいいのか」ってわかる。
 それが大事なんです。正解なんか、どうでもいいんです。元気になってくれさえすれば、だいたいのことは何とかなるんですから。
 というところで、次の課題です。
 しばらく続いている「戯曲シリーズ」です。これ、わりと書きやすそうですからね。
今回の出だしは
 母「あの子、昨日なんか二階にいるのに、あたしの携帯に電話して『晩飯まだ』なんて訊くのよ!」

 です。会話の相手は「父」です。
 がんばってね。

O川さま
 こんにちは。内田樹です。
 今回は早かったですね。
 そうか「あの子」は女の子なのね。なるほど。
 あと、「お父さん」て、これそういう指示があったことを知らないで読むと「息子」と母の会話に聞えますね。「あの子」より2,3歳上の息子と母の会話。
 父親の語り口やロジックというのがO川君にはまだ内面化していないのでしょうか。
 そうかもしれないですね(これはたいへん興味深い論件ですが)。
 あと、O川君の造形する人たちは(とくに男は)みんな「妙にものわかりがいい」ですね。 自分のプリンシプルにこだわりがあって、「誰が何と言おうと、俺は俺だから」的な人物って、まだ出て来たことないんじゃないかな。
 いや、良い悪いじゃないんですよ。「こだわり、プライド、被害者意識」は病んだ男たちの共通項ですから。そんなものはないにこしたことはない。けれども、それにしても、O川君が虚構として造形した男たちにおいてさえ、そういう傾向がなさ過ぎるというのもちょっと興味深いです。
 というわけで、今度もO川君に「父親」を想像的に造形してもらうことにします。
 この課題、なかなか面白いですね。人物を好きに造形してよいという条件の方が、書き手が「人間とはどういうものか」を考えている枠組みをあらわにするとは。
 今回も枠組みだけ決めておきます。
 今回の課題は「結婚式の新郎の父親からの謝辞」です。どういう条件での結婚かは好きに決めて下さい。
 結婚披露宴が終わって、最後に父親がちょっと赤い顔をしてする挨拶です。
 どんなふうでもいいです。定型的でもいいし、型破りでもいいし。どっちつかずでもいいです。言うことに筋が通っていてもいいし、支離滅裂でもいいです。条件は「リアルであること(ほんとにこんなオヤジいるよな・・・)」それだけです。
では。

O川さま
 こんにちは。内田樹です。
 父親造形シリーズ、ありがとうございました。今回もまた「やたらにものわかりのいいお父さん」でしたね。
 たしかに、父親が謝辞を言う結婚披露宴というのは「仲良し家族」のはずですし、こういうところでは嘘でも「仲良し家族」を演ずるはずですから、定型的になるのは当然かもしれませんね。
 前に卒業生の披露宴に出たときに、新婦が「お父さんへの感謝の手紙」というのを読み上げました。
「お父さんは、むかしから私がお願いしたことはどんなことでも全部『いいよ』って言ってくれましたね。だから、私が彼を最初に家に連れて行ったときも、『お前の好きなようにしなさい』って、にっこり笑って受け容れてくれました。お父さん、ほんとうにありがとう!」
というのを聞いていたら、横にいた同期のゼミ生が肘で僕を突いて、「先生、あれ全部嘘よ。お父さん、結婚に大反対で、『絶対ダメだ!』っていって、すさまじい親子喧嘩してたんだから・・・」って教えてくれました。
 それを聞いて、むしろ僕は感心しちゃいました。
 なるほど、「家族の物語」というのはこうやってメンバーたちが作為的に作り込んでゆくのだな、って。
 そして、たしかにO川君が造形した、この父親の息子について語る言葉にはなんとなくリアリティがないんですよね。なんか妙に淡泊で。
 いや、それが悪いというんじゃないんです。
 そういうふうに「なんとなくリアリティがない」のが父親が家族について語るすべての言葉についてまわる特性なんですから。
 家族について「リアルな言葉」を語れる父親なんて、そういません。
「頑固オヤジ」も「ものわかりのいい父親」も「無関心な父親」も、それぞれ全部定型的なんです。定型句しか口にしない。個性的な言葉を語る父親もまれにいますけれど、それは父親としての責任とか権威とかを断念し放棄した父親です。
 父親であるというポジションを捨てた代償としてしか、「子どもについて自由に語る権利」を男は手に入れることができないんだと思います。ちょっと切ないですね。
 というところで、ここまでは虚構シリーズでしたけれど、たまには「ノンフィクション」課題を出します。
「僕の父」
です。
 これはたぶんO川君はうまく書けないと思います。それでいいんです。
 ある主題についてはうまく書けないという事実をみつめることもとてもたいせつな「書くレッスン」ですから。
 では、がんばってね。

O川さま
 こんにちは。内田樹です。
 課題提出ご苦労さまでした。今回はなかなかたいへんそうでしたね。お疲れさまでした。
 前回書いたように、「父親が語る言葉」はなぜかつねに定型的なものになります。なぜか知りませんけれど。
 でも、男の子が「父親について語る言葉」はそれほど定型的ではありません。
 たぶん、「こういうふうに語ればいい」という標準的なものを教えられたことがないからです。
 僕の知る限りでは、父親を客観的に、すっきりと語ることができた友人たちは、いずれも父親と疎遠でしたし、憎んでいる人さえいました。
 父親と仲が良かった、あるいは父親が好きだった息子たちはいずれも言葉少なでした。たぶん客観的にうまく記述できないんでしょう。
 僕は父親のことを、父親が生きている間はほとんど語ったことがありません。
 でも、死んだ後に、噴き出すように出て来ました。よくこんな細かいことまで覚えていたな・・・というようなどうでもいいようなことを思い出しました。
 思い出を話し出すとなかなか終わらないというのは、「とても一言では語りきれない」くらい、ひとつひとつの細部に思い出がこもっているからです。
 O川君の父親についての言葉は「ひとことで斬り捨てる」ようなところと、「断片的な記憶」が混ざり合っていました。それがO川君とお父さんの微妙な距離感、親疎の揺らぎを表しているんだろうと思います。
 このあと、いずれお父さんが亡くなったあとに、しばらくしてから「どうしてこんなどうでもいいことを記憶しているんだろう」というような思い出がこみ上げてくることがあると思います。そのときに「父のことがけっこう好きだった」ということがわかるのですけれど、その ときにはもう父親はいない。
 そういうものみたいです。
 むずかしい課題の次は、もうちょっと優しい、ずっと技術的な課題を出します。
「説明」です。
文章のうまい人は説明がうまい。これはほんとうです。
『豊穣の海』に本多繁邦(登場人物のひとり)が仏教の「唯識論」の「阿賴耶識」という概念の説明をする部分があります。小説のプロットとはほとんど関係ないんですけれど、この説明がすごい。三島由紀夫はそれについて説明し始めたらつい「乗って」しまったんでしょうね。
もう読んでいてどきどきするくらい面白かったです(読み終わった瞬間に忘れちゃいましたけど)。どんな仏教書よりもわかりやすかったことは間違いありません。
 村上春樹も『1Q84』で1970年代の全共闘闘争のあとに敗残の学生たちが宗教やエコロジーや有機農業にはまりこんでゆく状況を説明した部分がありますけれど、僕がリアルタイムで生きていたその10年間をこれほどみごとに「説明」した文章を読んだ記憶がありません。
というわけで、どのような主張や、どのような美辞麗句よりも、読者が知らないことを読者にわかりやすく説明するという技術はものを書く上で必須のものであり、かつきわめて困難なものなのであります。
 というわけで、今回の課題は「僕のしている仕事」です。
 長い小説の中の途中で、登場人物のひとりがたまたま自分の仕事がどういうものかを他の人に説明しなければならなくなったので、「あのですね・・・」と事情をよく知らない相手に向かって噛んで含めるように説明しているようなつもりで書いてみてください。
 大事なのは「親身になって説明すること」です。
 では、がんばってね。

O川さま
 おはようございます。内田樹です。
 課題ありがとうございました。
 今回の説明はとてもよい出来でした。日本酒ができるプロセスについては、とてもわかりやすい説明でした。
 でも、この説明を読んで、O川君の書き物に共通する特徴がちょっとわかってきました。
それは「身体性がいささか乏しい」ということと「失敗経験を書くのが苦手」ということです。
 お、いきなり・・・とびっくりしたかも知れませんけれど、この二つはたぶん深いところでひとつなんだと思います。
 お酒を作るというとても具体的なプロセスについての説明の中に、作っているものの「手触り」とか「匂い」とか「味わい」とか「温度」とか「湿度」とかについての言及が少ないんです。食べものを作っている以上、その説明では嗅覚と味覚への情報入力がふつうは一番先に来るはずなのに、それがあまりない。
 僕の知り合いでも「どぶろく」を作っている人がいますけれど、その人の「どぶろく」製造話を聴くのが僕は好きなんですけれど、聴いているうちに喉が渇いてきて、「ああ、飲みたい・・・」という気分になる。
 別に特別グルメ的な言葉づかいをしているわけじゃないんです。ただ技術的な説明をしているだけなんですけれど、ポリバケツを洗うときの水が冷たさとか、発酵のときに「ぼこぼこ」気泡が出てくる音が夜中に聞こえるとか、蓋を開けたときの猫のびっくりした反応とか、そういうどうでもいい話を聴いていると「やたら飲みたくなってくる」んです。
 こちらの身体の触覚とか味覚とかが動き始めるからなんでしょうね。
 それともうひとつ。「ものづくり」というのはつねに失敗と背中合わせです。だから、どうやって失敗を避けるかをめざして技術的な洗練がなされるね。
 それは人間がどういうところで「たいせつなこと」を見落とすかについての考察でもあるわけです。
「失敗」というのは実は非常に身体的なことなんです。個性的と言ってもいい。
 僕がする失敗はすべて「いかにもウチダがしそうな失敗」という個性の刻印を黒々と押されています。「これはウチダならしそうもない失敗だなあ」というような感想を持たれるような失敗を僕はした覚えがありません。ぜんぶ「ウチダ印」付きです。粗忽で、無思慮で、ほら吹きで、「言わなければよかったこと、しなければよかったこと」をして大失敗ということをこの年になるまで繰り返しています。
 深沢七郎という作家に「言わなければよかった日記」という本があります(もう絶版でしょうけど)。ひたすら日々の「言わなければよかったようなこと、しなければよかったようなこと」だけが綴られた日記でした。でも、なんだかめちゃめちゃ面白かった記憶があります。
この人は自分の失敗そのものが個性的な作品となりうることをどこかで直感したのでしょうね(そのせいで、命の危険まで経験した人ですけれど)。
 自分の失敗をどれくらい言葉にできるかは自分をどれくらい観察しているかに相関します。
だから、失敗というのはとてもたいせつな素材なんです。
 でも、それは「反省日記」みたいなものではないんです。そんなこわばったものを書いても仕方がない。誰かに見せるわけじゃなくて、自己観察のため、自分に向けて書くわけですから。自分の失敗を「愉快に」書いて、自分で「納得する」というプロセスを繰り返すことがたいせつなんだと思います。
 というわけで、今回の課題は「言わなければよかった日記」です。
 これからしばらく毎日「言わなければよかったこと」を1日ひとつずつ探してそれを書いて下さい。別に総括も反省も要りません。ただ1日1個ごく客観的に「今日、こういう場面で、こういう人に対してこんなことを言った。・・・・・言わなければよかった。」とだけ書いてください。がんばってね!

O川さま
 おはようございます。内田樹です。
 課題提出ありがとうございます。
 自転車がO川君にとってとてもたいせつな生きるツールだということがわかりました。
 前に大阪の高校まで雨の日も風の日も自転車で通っていたという話をしているときに、O川君にとってそれが自分を保つためにとても重要な経験だったらしいと思いましたが、そのときのことをちょっと思い出しました。
 文章は大きくわけると「横に滑る」と「縦に掘る」という二種類があります。
 スピード感とかリズムの良さとかいうのは「横に滑る」ことの効果です。次々と違う風景が展開する。その心地よさです。
 でも、もうひとつ「縦に掘る」という書き方があります。これはいきなり今いるところからがしがし下に掘るのではありません。横滑りしているうちに、あるところで「井戸に落ちる」ようにぐっと地面の下に掘り進んでしまうのです。
 グルーヴ感というか、墜落感というか、浮遊感というか、垂直方向の高度変化だけがもたらす不思議な感覚は「縦に掘る」文章しかもたらすことができません。
 よい文章は横滑りから始まって、ある地点で縦掘りになり、また地表に出て、少し横に滑って、止まる。というかたちで整っていることが多いようです。なんとなくですけれど。
 O川君の文章は最初の頃のものに比べると(自分で読み比べてみてください)、ところどころで「すとん」と縦に掘るような文章が出てくるようになりました。
 まだ深い穴にはなっていませんけれど、それでも垂直方向への「墜落(なのか浮上なのか)」がところどころに感じられます。
 これ、とっても大事なことです。
 前の便でO川君も書いていたけれど、たぶん現代人は「スピード感」とか「効率」ということをあまりに重視し過ぎているんです。
 ときどき立ち止まって、「縦に掘る」ことで文章は深いものになります。
 問題は「どこに穴があるか、事前には予測できない」ということです。「掘る」というのはたしかに主体的な動作ですけれど、「穴に足がはまった」ときに「ああ、ここを掘るのか」とわかるのであって、自分で勝手に「ここを掘る」と決めることはできません。
 僕が前便で「フック」と言ったのはそのような「穴」のことです。
 これを探すのは文章修業のとてもたいせつな課程なのです。
 というわけで、次も「フックするもの」を探すという課題で行ってみます。
 今回は「どうしても捨てられないもの」です。
「捨てる」というのは人間にとってとても根源的な選択です。「捨てられるもの」と「捨てられないもの」をどういう基準で決めているのかはひとりの人間の特性について多くを語っています。
 というわけで、「どうしても捨てられないもの」をひとつでもふたつでも書き出してみて、できたら「どうして捨てられないのか」について自己分析を試みてください。
 これはむずかしいかも。
 では、がんばってね。

O川さま
 こんばんは。内田樹です。
 返信遅れて申し訳ありません。韓国ツァーがけっこうハードで、夜はもうばたんと眠ってこんこんと朝まで眠って、昼間も眠って・・・机に向かう時間がとれませんでした。日本に戻ってきて、ようやくちょっとだけ落ち着きを取り戻しました。でも、4日も家をあけると仕事がたまって、すごいことになってます。はふ。

 さて、「捨てられないもの」は本とDVDでしたか。本の選別基準の話と、DVD二つ買っておいた話が面白かったです。
 僕は本の選別基準を考えるのが面倒なので、どんどん書棚を拡大し続けましたが、95年の震災のときと、2011年の凱風館への引っ越しのときに、物理的に「もう本を置くスペースがない」とわかったので、大量に処分しました。
 そのときの基準は、本そのものの価値とはかかわりなく、「残る人生で手に取って読む可能性があるか?」でした。既読未読にかかわらず、そういうことってなんとなくわかるんですよね。
 まあ、そのときも「捨てた後に、やっぱり読みたいと思ったときはアマゾンで金出せば手に入るし」ということを考えていわけです。
 そのときに「断捨離ができるためには、『欲しいときにはまた買えばいい』と言えるだけの貯えがいる」ということを学んだのでした。
 ものを捨てたければ、金を貯めろ・・・って、なんか出口のない無限ループみたいですね。
 今回はO川君の個性が「捨てられないもの」にはそれほど顕著には表われていないことがわかりました。課題ちょっとはずしましたね。では、次の課題です。ちょっと似てますけれど。
「片付けられない」
 これだけです。
 自分のことでもいいし、人のことでもいいです。あるいはこの言葉から思いついた「お話」 でもいいです。
 がんばってね。

O川さま
 こんにちは。内田樹です。
 返信遅くなってすみません。「死のロード」と「死の締め切り」で半死半生だったのであります。
 今日やっと少し時間ができて仕事以外のことができるようになりました。やれやれ。
 課題ありがとうございました。

「これはまったくの仮説なのだけど、この机の上は自分の脳の状態を表しているんじゃないか。もっと言えば、「こういうことを考えていたい」という願望を表しているのではないか。」

 というところ、僕もまったく同意見です。
 僕の場合は本棚です。これは明らかに「僕の脳内を可視化したもの」です。
 というより、「僕の脳内を可視化したものだと人に思われたいもの」です。ややこしいね。
 つまり、僕の本棚には「既に読んだ本」と「これから読む本」が渾然と並んでいるわけですけれど、実は80%くらいは「これから(はずの)読む本」です。
 でも、それを書棚に飾って誇示しているのは、書斎を訪れた人に「こういう本を読んだ人」だと「勘違い」されることを願っているからです。
 つまり、脳内そのものではなく、「ウチダの脳内はこんなふうになっていると思われたいイメージ」ですね。
 でも、実際に僕たちがものごとの正否を判断したり、好き嫌いを言ったりするときの基準になるのはかなりの程度まで「ウチダだったら、きっとこう言うだろう」という他者が僕について持つイメージの方であるわけです。
 せっかくのイメージを壊しちゃいけないから・・・というので無理やりにも、不本意ながらも、「いかにも」僕らしい言動を重ねているうちに、どんどんそういう人間になってゆく。
 書棚とか、住んでる家のインテリアとか、着てる服とか、にはそういう規範力があるんです。だから、なかなか侮れないのであります。
 家を片付けられない人というのは、実は「他人からどう思われるか」ということをあまり気にしないで、自分にとってどういう配列が「気分いいか」を基準にしている人だと僕は思っています。
 むかし結婚していたときの義妹(もう亡くなってしまいました)は他の部屋はきちんと片付けているのですが、自分はミカン箱の上にFM雑誌とトランジスタラジオとやかんがあるだけの畳の部屋にござを敷いて暮らしていました。どうして?と訊いたら、夜中にござの上で寝ながらFMラジオを聴いている途中で喉が渇いたらやかんから水を飲むのだと説明してくれました。
 それらのものは彼女の生理的欲求に基づいてきわめて合理的に配列されていたのでした。
 さて、次も「自分というシステム」の「穴」についての考察です。
 課題は「思い出せない」です。
「思い出せない」というキーワードをどこかで使ってくれれば、どんな話でもいいです。
では、がんばってね。


O川さま
 おはようございます。内田樹です。
 課題ありがとうございました。
「思い出せない」はむずかしかったですか。なかなか課題の難易度は予測しがたいですね。ごめんね。
 たしかに「思い出せない」ことは、「思い出せないということそのものを思い出せない」というかたちで二重に封印されれているから有効なんですよね。別にO川君自身の話じゃなくて、「どうしてこのひとは『あんなこと』を忘れちゃっているんだろう・・・」ということでよかったんです。そういうふうに特定すればよかったね。

 転職された由、いろいろと事情があってのことと思いますが、お酒を造る現場の仕事になったというのはとてもいいことだと思います。ものを作るという仕事はひとにたしかな自尊感情をもたらすので、その分だけ余裕があって、その分だけまわりに優しくなれるみたいです(まわりの人に「オレを尊敬しろ」って強要しなくても、自分で「けっこうやってるなあ、オレは」と確信できるからでしょうか)。
 お酒作りに精進してくださいね。 
 では、今回の課題はそれから関連して思いついた「オトコのプライド」です。
 ちょっとむずかしいかな。「オトコ」というカタカナ表記にちょっと含意をこめました。お気楽なエッセイのつもりで書いてください。
では、がんばってね!

O川さま
 こんにちは。内田樹です。
 課題頂きました。返信遅くなってすみません。母の葬儀やらなんやらで、いろいろ用事が立て込んでいて、あちこちに不義理をしてしまいました。
「オトコのプライド」むずかしかったですか。
 プライドというより「自己規律」というほうがいいのかもしれません。
 外からの規範が効かない局面で、自分の行動を律する「自分のためのルール」を持っているかどうか、それがとてもたいせつだという話を昨日の寺子屋ゼミでしたところでした。
 昨日のテーマは家庭内暴力(子どもを放置して餓死させた親の話)でした。
 この母親をメディアと司法はめちゃくちゃに叩きました。
 発表者の女性は、母親をここまで追い詰めた家族たちと行政のことを主題にしていました。
僕はそれだけではなく、今の日本を(いや世界全体かな)を覆い尽くしている自己規律の緩みということを重く感じました。
 この母親は「育児は苦役だ」「それよりお酒飲んでホストと遊んでいる方がたのしい」という「本音」にある時点で全面的に屈服していしまいました。
 でも、心のどこかに「いや、小さな子どもたちの面倒をみないと」という義務感はあって、いつも何らかの疚しさにつきまとわれていたのだと思います。
 そのふたつの気持ちを同時に持っているのがふつうの人間です。
 僕が自己規律と呼ぶのは、このふたつの気持ちの間のバランスをとる能力のことです。
「子どもの面倒をみろ」というのは社会的規範です。「それより遊びたい」というのは個人的な欲求です。その間で「なんとか折り合いをつけねば」と、あれこれ手持ちの資源の残高を勘定しながら、できることをしてゆくことを僕は「自己規律」と呼びます。
 自分自身に対する「手綱」を強めたり、緩めたりする技術のことです。
「オトコのプライド」というのは社会的規範です。内的に十分な根拠があるものではありません。社会的規範を過剰に内面化してしまうと、生きるのがどんどん不自由になります。では、その逆に規範なんか無視して、ただ生理的欲求に従って生きれば自由になるかというと、そうでもありません。ただエゴイスティックにふるまうだけの人間はどのような社会的信頼も得られません。支援者もいないし、友人もいない。それはそれでずいぶん不自由な生き方です。
 規範に従っても不自由、欲求に従っても不自由。この矛盾のあいだに引き裂かれているのが「ふつうの人間」です。
 その引き裂かれている状態をそれなりに快適に生きる技術のことをぼくは「自己規律」と呼んでいます。
 それは言い換えれば「私」という多極的・多層的な存在を制御する技術のことです。
 僕の中には、エゴイスティックで、暴力的で、なまけ者で、強欲な「ウチダ」もいるし、博愛的で、穏やかで、勤勉な「ウチダ」もいます。どちらもほんとうの「ウチダです。どちらか一方に片付けろと言われても、それは無理です。
 そういういろいろな「ウチダ」をなんとか折り合いを付けて共生させる技術が必要なんです。
 O川くんが書いているように、今の女たちは「社会的規範」をやや多めに身体化し、男たちは「生理的快不快」による判断を過剰に重んじるようになっています。
 それは社会のジェンダー規範の変化に対するそれなりの補正の動きなんだろうと思います。
でも、いつも補正の動きは過剰になるんですよね。
「古い」タイプの性役割も「新しい」性役割も、どちらも社会的フィクションであることに変わりはありません。でも、打ち捨てられた「古い」タイプの性役割規範にもそれなりの条理はあります。
 そういう規範をバランスよく自分のために調合する能力、それが成熟のためには必須のものではないかと僕は思います。
 そういうことを考え始めるきっかけになるといいなと思って「オトコのプライド」という課題を出したけれど、むずかしかったですね。
 ごめんね。
 でも、これはとてもたいせつなことなので、もうちょっと「オトコ」シリーズを続けます。
 課題20は「男が泣くとき」です。
 O川くん自身の話でもいいですし、他の人の話でも、一般論でもいいです。
「男が泣く」という場面をひとつ入れて文章を書いて下さい。
 では。がんばってね。

O川さま
 こんにちは。内田樹です。
「男の涙」読みました。
 この下のところ、O川くんがいままで書いたなかでいちばん「ヴォイス」の響いた文章だったと思います。

「励ます意図で言ったことだと思うけれど、僕は少し違和感を感じた。
そういう言い方があまりにも定型的で反感すら持ってしまった。
ただ、祖父はそのニュアンスを素直に受け取ったのか、笑ったような泣いたような顔になり、ほんの少しだけ目を潤ませていた。」

 O川くん自身の「感想」と、O川くんが見たままの「観察」がお互いに排除し合うことのないままにさらさらっと共存しています。
 これなんですよ。「ヴォイス」って。
 書き手の内面の思いと客観的な記述が共生しているものなんです。
 思いがこもっていないと「生きた」文章にならない。クールでリアルな観察が伴っていないと「読める」文章にならない。
 この「さじ加減」がむずかしいんです。
 多くの人はそれを間違えて、べたべたに情緒的な文体を選んだり、感情のまるでこもっていないハードボイルドな文体を選んだりして、「すっきり」させようとする。
 ヴォイスは生身の声ですから、すっきりするはずがないんです。
 澱んだり、たわんだり、きしんだり、震えたりするものなんです。
 そういう文章を書いて欲しいと思って、O川くんにいろいろ難問を課しているのであります。でも、年末最後の課題でこれまででいちばんよい文章を書いてくれたので、僕はとてもうれしいです。

では、来年の最初の課題(21)を。
「死者の切迫」です。ちょっとむずかしいかな。
 人間は誰でも「死者」を「けっこう身近に感じる」ことがあります。
 どういう場合にそうなるのか、僕にもまだよくわかりません。
 幽明境を異にして、「壁のむこう」側にいるはずの人がなんだかすぐ側にいるような気がすることがある。
 僕たちが現実だと思っているものと非現実だと思っているものの間を分かつ「壁」はそれほど堅牢なものではないようです。
 O川くんが、死者をふっと身近に感じたことがある経験(べつに幽霊を見たとかそういう話ではないです。そういう話でもいいですけど)があれば、それを思い出してみてください。
ではよいお年をお迎えください。