安倍元首相銃撃の報に接して

2022-07-08 vendredi

 信濃毎日に寄稿したもののロングヴァージョン。 

 この信濃毎日の「今日の視点」の私の連載分は金曜日の正午が締め切りなので、参院選の結果がわからない段階だったけれども、「参院選の歴史的意味」というタイトルですこし長めのタイムスパンの中でこの選挙の歴史的意味について思うところを書いた。
 原稿を書き上げた直後に「安倍元首相が銃撃されて心肺停止」というニュースが飛び込んで来た。少し締め切りを遅らせてもらって、とりあえずニュース第一報が入った時点でのこの事件についての私のコメントを記しておくことにした。さいわい、新聞社は締め切りを遅らせてもいいと言ってくれた。雅量を多としたい。

 安倍氏の容態についても、犯人が何者でいかなる動機に基づくテロであるのかも、決定的な情報がない段階で書いているので、この原稿が紙面に出る頃には、私の書いていることが事実誤認であったり、無意味なものになっている可能性は残るが、それでも今書くべきことは書いておきたい。
 いかなる政治的立場にある人間に対しても、その活動を妨害するために暴力を用いることは絶対に許されない。「絶対に許されない暴力」の犠牲になった安倍氏に対しては、立場を越えてすべての国民がその無事を祈っていると思う。私はほとんどすべての政治的イシューについて氏の掲げる政策に反対してきたけれども、今はただ彼の健康の回復と政界復帰を願っている。
 どれほど妥協の余地のない政治的対立であっても、その理非を決するのは「自由な言論」の審級であるべきで、それ以外の手段を私は受け容れない。そのことをもう一度繰り返しておきたい。
 けれども、この数年、日本社会で政治を語る言葉は年を追って「自由な」というよりは「節度を失った」ものになってきていた。そのことはみんな感じていたと思う。
 それでも、「暴力的な言葉」はただの「言葉」に過ぎない、言葉が人を深く傷つけることはない。そう信じていた人も多いと思う。でも、それは違う。
 罵倒や嘘やプロパガンダが言論の場を領するようになると、「聞き届けられるべき言葉」と「消え去るべき言葉」を判定する力が言論の場にはあるという確信を人々は失い始める。自由な言論の場の審判力に対する信頼が失われた時に、物理的暴力の持つ現実変成力への期待が膨張する。言論への信認が失われる時に、物理的な力だけが決定力を持つという忌むべき思想が人々の心に入り込む。このふたつはゼロサムの関係にある。
 政治的暴力を抑止するために必要なのは、警察や軍隊の強化ではない。十分な信頼に足るだけ、論理的で、感情豊かで、かつ節度ある自由な言論をもう一度作り直すことだ。その作業なら今すぐここから始めることができる。