部活は生き残れるか

2022-06-27 lundi

『週刊金曜日』に部活の地域移管について書いた。 

 文科省とスポーツ庁が主導して、公立中学校での部活の「地域移管」が進められている。来年度からまず運動部の地域移管が始まり、文科系部活についても来月には提言がまとめられるという。
 勝利至上主義に毒された指導者が生徒の人格を否定するような暴言を吐き、体調を崩すほどの長時間拘束を強いる「ブラック部活」はない方がましだと私は思う。
 一方で、教員にとっての負荷も過大なものになっている。部活の顧問になって休日返上して指導に当たった教員が心身を病むという事例も報告されている。
 生徒も苦しみ、教員も苦しんでるのだから、そんな部活はアウトソースすればいいというのがこのたびの「地域移管」の理由だ(と私は思っている)。
 むろん文科省はそんなことは言わない。地域移管は「少子化による廃部で、子どもの選択肢が減っているので、もっと多様な選択肢を提供する」「専門家による指導が受けられる」という「子どもたちにとっていいことが増える」施策だとされている。
 しかし、アウトソーシングを受け入れる地域の側にも不安材料はある。部活の指導にあたる人はその分野での専門家ではあるけれど、教育者ではない。果たして部活の「教育的な意味」をどれくらい理解しているのか。
 部活というのは世界のどこにでもあるというものではない。以前、フランスの青年から「先生は合気道をどこで教えているのですか?」と訊かれて「大学のクラブ活動」と答えたら、怪訝な顔をされたことがある。「何ですか、それ?」というので、「放課後に学生がキャンパスでスポーツをしたりバンドやったり芝居やったりするじゃない」と説明したが、「そんなものはフランスにはありません」と言われた。
 学校は勉強だけするところで、授業が終われば生徒たちは外に出され校舎は施錠される。サッカーや水泳のクラブはあるが、それはいったん家に戻ってから個人的に通うものであって、車でクラブまで送り迎えしてくれて、高額の料金を負担できるだけの経済力のある家の子どものためのものである。そう言われてみたら、フランス映画で中高生が部活に興じるという場面を見た記憶がない。
 パリの「バンリュー」と呼ばれるスラムには図書館も美術館も音楽ホールも映画館も、およそ文化的なものは何もないという話をそこで中学の先生をしていたフランス人から聴いたことがある。だから、そこで暮らす子どもたちは本を読んだり、音楽を聴いたり、美術品を鑑賞したりという機会そのものから遮断されている。
 なるほどそのようにして文化資本の偏在が制度化され、階層社会が再生産されているのかと得心がいった。
 日本の部活には「文化資本の民主的分配」という側面があったことを私たちは忘れているのではないか。部活のおかげで貧しい家の子どもたちでも、運動器具や楽器やさまざまな機材を無償で使うことができる。それによって子どもたちは運動能力であれ、芸術的才能であれ、自分の「隠された資質」を発見する機会に出会う。部活とは本来そのようにして子どもたちの中に潜在している才能を発見し、その開花を支援するための制度ではなかったのか。だが、ある時期から教師たちも保護者たちも、部活の本旨を忘れてしまった。
 子どもたちの潜在可能性の開花を支援するという部活の教育的意義を忘れて「地域移管」してみても、「勝利至上主義」の専門家が生徒たちを罵倒したり、経済力のある家の子どもたちの前にしか多様な選択肢が与えられないのなら、それはもう「部活」とさえ呼ばれないのではないか。