『他者と死者』韓国語版のためのまえがき

2022-04-26 mardi

 みなさん、こんにちは。内田樹です。
『他者と死者』の韓国語版を手に取ってくださって、ありがとうございます。書店で手に取っただけで、買おうかどうかまだ迷っている方もおられると思います。とりあえずは、この「まえがき」だけ読んで行ってください。「まえがき」を読んで「あ、これは自分とは関係ない本だ」と感じたら、そっと書架にお戻しください。また別の機会に、別の本でお会いできることを願っております。
 
 本書は僕のライフワークである「レヴィナス三部作」の第二部に当たります。第一部が『レヴィナスと愛の現象学』(2001年)、第三部が『レヴィナスの時間論』(2022年)です。どれも朴東燮先生の翻訳で韓国の読者のお手元に届くことになりました。朴先生のご尽力にまず厚くお礼申し上げます。ほんとうにいつもありがとうございます。
 第三部『レヴィナスの時間論』については本書の「あとがき」でも「これから書きます」と予告しておりますが、6年かけて昨年無事に書き上げることができました。先日出版され、気の早い朴先生がすでに翻訳に取り掛かっておりますので、韓国の書店でももうすぐ三部作をお手に取ることができるようになると思います。

 僕の立場を最初に明らかにしておきたいと思います。僕はレヴィナス先生を「哲学上の師」と仰いでいます。僕の書斎の机の前には1991年の8月にレヴィナス先生から頂いてお手紙が額に入れて飾ってあります。フランソワ・ポワリエがレヴィナス先生にロング・インタビューをしたQui êtes-vous, Emmanuel Lévinas?, Édition La Manufacture, 1987 の日本語訳『暴力と聖性』(国文社、1991年)をお送りしたときに頂いたお礼状です。先生の書いた文章の一部を訳しておきます。

「あなたのお仕事に心から感謝いたします。日本語は読めませんが、あなたのお仕事がみごとなものであることを私は確信しております。あなたは私のことをとても正確にご存じのように思われます。フランスにお仕事か観光でおいでになることがあったら、忘れずにパリの私を訪ねてください。あなたへの共感と感謝をお伝えします。あなたの哲学的未来が豊かなものであることを祈念いたします。」
 
 この手紙を頂いたときに僕は40歳になったばかりでした。まだ学術的な業績らしい業績もない駆け出しの仏文学者でした。ですから、これを読んでそれこそ飛び上がるほどにうれしかったことはみなさんにもご想像できると思います。
 僕はその4年前、1987年の夏にパリのレヴィナス先生のお宅を訪れて、数時間差し向かいでお話を伺ったことがあります。直接お会いしたのはその一度だけでした。90年にフランスに行った時は電話でご都合をうかがったところ、先生はこれから学会でイタリアに行くので時間がとれないということでした。この手紙はその翌年に頂いたものです。95年の暮れに先生は亡くなりましたので、これが僕がレヴィナス先生から頂いた最初で最後の手紙となりました。
 こういう手紙を頂いた僕が、それからあと一生をレヴィナス先生の哲学的な業績がどれほど豊かなものであるかを語り続けることを本務とするようになった事情はお分かりいただけると思います。『レヴィナスと愛の現象学』と『他者と死者』はレヴィナス先生の墓前に捧げたものです。亡くなった先生の学恩に対する僕からの感謝の気持ちをこめて記した本です。
 これらの本は「レヴィナス研究者によるレヴィナス哲学研究」ではありません。僕は「レヴィナスの研究者」ではなく、「レヴィナスの弟子」だからです。僕は哲学的な思考の仕方や用語法をほとんどレヴィナス先生から教わりました。「レヴィナスの読み方をレヴィナス自身から教わった人」のことを「研究者」と呼ぶことはできません。僕はただ師がいかに偉大な哲学者であるか、それをみなさんにお伝えすることだけが仕事です。
 ですから、僕の書くレヴィナス論を読んでも、たぶんみなさんは「なるほど、そうだったのか。これでレヴィナスがわかったぞ」と膝を打つ、ということにはまずならないと思います。そんなふうにして「レヴィナスを読まずに、わかった気になること」は僕が最も望んでいないことだからです。僕が「レヴィナスはこれこれこういうことを書いています」と祖述するのは、それを読んでみなさんに「わかった気になってもらう」ためではありません。「レヴィナスにけりをつける」ためではありません。逆です。それを読んで「なんだかぜんぜんわからない」と頭を抱えて、「こうなったら自分でレヴィナスを読むしかないか」と腹を括る読者を一人でも増やしたくて僕は本を書いているのです。
 この本を読んだ後にレヴィナスの本を実際に手に取って、僕とはぜんぜん違う読み方をする読者(そして、かなうことなら「自分オリジナルのレヴィナス論を書きたい」と思う読者)が韓国にも登場してくれることを僕は心から願っています。
 次はぜひ『レヴィナスの時間論』でお会いしたいです。 

2022年4月
内田樹