日本は帝国の属領から脱却できるか?

2022-04-21 jeudi

『月刊日本』5月号は「ウクライナ後の世界」を特集した。そこにロングインタビューが載ったので、転載しておく。

―― ウクライナ戦争は世界の在り方を変えました。しかし何がどう変ったのかは、まだよく分かりません。内田さんはこの戦争で世界はどう変わると思いますか。

内田 ウクライナ戦争は「国民国家の底力」を明らかにしたと思います。冷戦後、国民国家はその歴史的役割を終えて、ゆっくり消滅していくと考えられていました。経済のグローバル化によって国民国家は基礎的政治単位であることを止めて、世界は再びいくつかの帝国に分割されるようになる。S・ハンチントンの『文明の衝突』(1996年)はいずれ世界が七つか八つの文明圏に分割されるという見通しを語ったものですが、多くの知識人がそれに同意しました。
 ウクライナ戦争は「ウクライナはロシア帝国の属領であるべきか、単立の国民国家であるべきか」という本質的な問いをめぐるものでした。プーチンは旧ソ連圏を再び支配下に置くことで帝国を再編しようとした。それに対して、ウクライナ国民は死を賭して単立の国民国家であることを選んだ。帝国の「併呑」志向と国民国家の「独立」志向が正面から激突した。そして、歴史的趨勢は「帝国の勝利」を指示していたはずなのに、意外にもウクライナは頑強に抵抗して「帝国化」のプランを挫き、国際社会は「国民国家の復元力」を見せつけられました。国民国家はそう簡単に歴史の舞台から消え去るものではなかった。

―― 世界は「帝国か、国民国家か」という分岐点にある。ここに至るまでの歴史的背景はどういうものなのですか。

内田 前近代の世界では、帝国が基本的な政治単位でした。帝国というのは、多人種・多言語・多宗教・多文化の集団を並立的に包摂する統治モデルです。強権的で、政治的自由は限定的ですけれども、治安はそれなりに安定しており、各民族集団は高度な自治権を持ちながら平穏に共生していた。ヨーロッパでは、宗教戦争を経て、1648年のウェストファリア条約から「国民国家」という新たな政治的単位が導入されます。
 国民国家というのは、ある限定的な「国土」のうちに、人種・言語・宗教・文化を共有する同質性の高い「国民」が集住しているという統治モデルです。
 国民国家が支配的な政治単位になった最大の理由は「国民国家は帝国より戦争に強い」と分かったからです。それを証明したのが、フランス革命戦争です。
 それまでの戦争は王侯貴族が傭兵を雇って領土や王位継承をめぐって戦うものでした。しかし、フランス革命戦争の主体は義勇兵でした。市民が自ら銃を執り、「革命の大義」を全ヨーロッパに宣布するために戦った。銃後の市民も、産業界も、メディアもこの戦争に全面的に協力しました。「総力戦」という戦争形態が可能になったのは国民国家成立によってです。
「わが国は世界史的使命を担っている。国民ひとりひとりの個人的献身によって国力は増強する」という信憑によって幻想的に統合された国民国家が、いくつかの民族集団が分断されたまま皇帝に服属している帝国を軍事的にも経済的にも圧倒した。だからこそ、19世紀から20世紀にかけて、帝国の属領だった地域が次々と国民国家として自立するようになったのです。
第一次世界大戦でロシア帝国、ドイツ帝国、オーストリア帝国、オスマン帝国が瓦解したことで、「国民国家でなければこれからのパワーゲームで生き残ることはできない」ということが世界的な常識になりました。第二次世界大戦後はかつて「帝国の植民地」であった地域が次々と独立しました。アフリカの場合、この時に「民族自立」の大義を掲げて独立した国家は必ずしも「人種・宗教・言語を共有する同質性の高い国民」によって形成されてはいませんでした。国内に民族対立を含み、同族が国境線で分断されていたにもかかわらずアフリカ諸国が国民国家の創建を急いだのは、国民国家がこれから基本的な政治単位になるということについてはグローバルな合意があったからです。
 しかし、冷戦後に「国民国家が基本的な政治単位であるべきだ」という信念に翳りが生じました。決定的だったのはユーゴ紛争だったと思います。ユーゴスラヴィアは五つの民族、四つの言語、三つの宗教を包含する多民族国家でした。チトー大統領の強い指導下にあった間ユーゴは国際社会でそれなりのプレゼンスを誇っていましたけれど、チトーの死後、同質的な民族ごとに独立国家を形成すべきだという「民族自立」運動によって連邦は解体し、その過程で虐殺や略奪やレイプなどの戦争犯罪が行われました。以後も旧ユーゴを形成していた国々の多くは政情不安と経済危機のうちにあります。
「民族自立」と言えば聞こえはよいけれど、「純血」集団をめざす政治運動は必ず「民族浄化」の暴力を呼び寄せる。ユーゴの経験によって「とにかく同質性の高い国民国家を形成するのが国運を向上させる唯一の道だ」という20世紀に広く共有された信念が揺らぐことになりました。
 経済のグローバル化がこの趨勢に拍車をかけることになります。商品・資本・人間・情報が国境を超えて高速で行き交うようになったために、世界的な大企業はいかなる国民国家にも帰属しない「無国籍産業」という形態を選択しました。人件費・製造コストの安い国に製造拠点を置き、租税回避地に本社を移し、いかなる国民国家の雇用創出にも納税にも貢献する気がない企業であることが利益を最大化する道だということに資本家たちは気がついたのです。
 各国のエリートたちもまた「祖国」に無関心になりました。世界各地に生活拠点を持ち、国籍を異にする人たちとネットワークで結ばれ、大陸間を自家用ジェットで移動することがエリートのステイタスになった。この「祖国の運命と自分の個人的運命とを切り離すことに成功した人たち」がそれにもかかわらず国民国家においても指導部を形成します。権力者に取り入り、国政に介入して、国家の公共財を私物化するようになった。「オリガルヒ」というのはロシアにだけいるわけではありません。公共財を私財に付け替えることを本務とする「エリート」たちは世界中にいます。むろん、日本にもいる。
 こうして国民国家内部に格差が広がり、国民としての一体感が崩れ始めた。それが「国民国家の液状化」と呼ばれる現象です。
 それに並行して「政治的な帝国化」も進行しました。軍事同盟や経済共同体を通じての「帝国の再編」が始まった。EU(神聖ローマ帝国)、ロシア(ロシア帝国)、トルコ(オスマン帝国)、インド(ムガール帝国)、中国(中華帝国)という旧帝国に、英米豪カナダ・ニュージーランドの「ファイブ・アイズ」(大英帝国)が加わりました。だからこそ国民国家によるウェストファリア・システムはその歴史的使命を終えて、世界は再び「帝国化」するという未来予測が行われるようになったのです。

―― その予想を裏切ったのが、コロナとウクライナだったわけですね。

内田 そうです。その前にブレグジットとトランプの「アメリカ・ファースト」がありましたから、予兆があったと言えばあったのです。加えて、コロナ禍では国民国家の境界線が強固な「疫学上の壁」であることが明らかになりました。2020年初めにイタリアが医療崩壊に陥った時、医療支援を求められた独仏は自国民を優先して、医療資源の輸出を禁じました。同じ感染症に罹患しながら、国境線のこちら側の人は生き、あちら側の人は死ぬということが起きた。感染症についてはシェンゲン協定は無効だったのです。そこに今回のウクライナ戦争が起きて、「国民国家は意外にしぶとい」ということを証明した。

―― 帝国化の趨勢は続くが、国民国家は簡単には消えないとなると......。

内田 今後の世界では帝国の「併呑」志向と国民国家の「独立」志向がせめぎ合うことになると思います。そこに帝国以外の軍事同盟や経済協力機構も絡んでくる。ISやアノニマスのような非国家アクターも絡んでくる。
 今回の戦争でも、欧米諸国は国民国家として、EU加盟国として、NATO加盟国として、国連加盟国として...などなどそのつどの政治課題ごとに軸足を置く政治単位を切り替えています。このやり方がこれからのデフォルトになるのではないかと思います。つまり、今後の国際社会では、「帝国」、軍事同盟、経済協力機構、国民国家、非国家アクターなどいくつかの政治単位が重層的に重なり合いながら、それぞれのロジックで動くということになる。政治課題ごとに国民国家の為政者たちは、どの政治単位に軸足を置いて判断し、行動するのか、それを選択することになるでしょう。
 これまでなら国際政治の基本的なアクターは国連に参加している193の国民国家であり、それぞれが自国益の最大化をめざしているというのがゲームのルールでした。ですから、どういう文脈で、どんな出来事が起きているのか、これからどうなるのかをある程度は予測ができました。でも、これからはルールがだいぶ複雑になってきた。今後の国際政治は変数が増えたせいで、複雑なパワーゲームになります。これまで以上に頭を使わないと生き残れない。
 日本は島国ですから、僕たちは同質性の高い国民国家であることが国のかたちとして自然であり、永遠にそうだと信じ込んでいます。しかし、世界の多くの国民国家は「その方が集団として生き残る可能性が高い」という理由で採用された暫定的な政治的装置にすぎません。政治単位は一定不変のものではなくて、歴史的条件が変われば膨張したり縮小したりする。現に、今から80年前、日本が「帝国」を志向していた時には、千島から内蒙古まで、シンガポールからインドネシアまでが「皇国の版図」でした。

―― 今回と同じような戦争や紛争は過去にもありました。しかし、ウクライナ戦争には世界的な関心が集っています。これはなぜだと思いますか。

内田 ポイントは、「政治的正しさ」(ポリティカル・コレクトネス)です。今回、ゼレンスキー大統領は国際社会に向けて「われわれは、自国領土や市民の自由と権利を守っているだけではなく、この戦いを通じて、世界中の人々の自由と権利をも守るためにも戦っているのだ」というメッセージを発信しました。ウクライナは自国の独立や国益より「上位の価値」を守るために戦っていると訴えた。そして、そのメッセージには十分な説得力がありました。ウクライナに世界中の市民から支援が殺到したのは、そのためだと思います。
「イラクやアフガンやシリアでの主権侵害には見向きもしなかった人々がウクライナに限って支援するのはダブルスタンダードだ」と批判する人たちもいます。でも、彼らが見落としているのは「今回に限って違うことが起きた」ということです。
 これまで紛争では被害国は「自分たちの領土が侵されていること、生存や自由や権利が脅かされている」ことを訴えはしましたけれど、それを守ることがそのまま「万人の生存や自由や権利を守る」ことに通じるというメッセージを発信することはできなかった。ですから他国の人々は「気の毒に」とは思っても、侵略されている人たちが「われわれのために戦っている」という印象を持つことはなかった。今回、ウクライナはこれまでの被害国と質の違うメッセージを発信することに成功しました。
 世界の人は「われわれは一国の領土や国益より『上位の価値』を守るために戦っている」というメッセージを国際社会に発信できなければ、相当な軍事力の差があっても、簡単には戦争に勝てないということをロシアの失敗から学習したと思います。
 ロシアはNATOの東方進出で自国の安全が脅かされたという「戦争理由」を掲げました。でも、これはいかにプーチンにとって切実だったとしても、ロシアの国益にしかかかわりがない。ロシアを超える「上位価値」のための戦いであるというメッセージをロシアは発信できませんでした。国内向けのプロパガンダとしてはそれで十分でしょうが、国際社会の共感を得ることができなかった。ですから、ロシアの被害者意識がどれほどリアルであっても、その憤りに共感してくれる人を広く国際社会に見出すことができなかった。
 アルベール・カミュは『反抗的人間』の冒頭に、それまで主人の命令に唯々諾々と従っていた従順な奴隷がある日「その命令だけは聞けません」と抗命することがあると書いています。それは主人が「踏み越えてはいけない一線」を越えたと判断したからです。カミュはそのような抗命のことを「反抗」と呼びます。
 人が「反抗」するのは、それが自分個人の運命にのみかかわることではないと感じた時です。自分一人が苦痛に耐え、屈辱を甘受すれば済むということについて、私たちはそれほど激しくは抵抗しません。どれほど理不尽な扱いをされても、「自分ひとりが苦しむだけで済むのなら」と受け入れるのはそれほど心理的には難しいことではないからです。しかし、ここで自分が退いてしまうと、自分ひとりでは弁済できないほど巨大な債務を他の人々が背負うことになると思うと、黙って引き下がるわけにはゆかない。それまで黙って「長いものに巻かれていた」人が「長いもの」に対決するようになる。
 カミュはこう書いています。
人が死ぬことを受け入れ、時に反抗のうちで死ぬのは、それが自分個人の運命を超える『善きもの』のためだと信じているからである。......人がある価値の名において行動するのは、漠然とではあっても、その価値を万人と共有していると感じているからである。」
「反抗的人間」はその戦いを通じて、潜在的には万人と連帯しています。だから反抗的人間は決して孤独ではない。今回、僕たちがウクライナ戦争から目を離せないのは、名前も顔も知らないウクライナの市民たちのうちに「反抗的人間」の相貌を見るからです。
 ゼレンスキー大統領は自分たちがどれほど非道な暴力にさらされているかをあきらかにすることを通じて、ウクライナの「反抗」の戦いには「政治的正しさ」があるということを訴えるものでした。その点では自分たちが「被害者だ」と言い続けながら、「政治的に正しいふるまい」の実例を一つも示すことができないプーチンに発信力に勝った。
「ポスト・トゥルースの時代」になってからは「政治的正しさ」という語そのものが嘲弄的なニュアンスでしか用いられなくなっていました。もう賞味期限が切れて、歴史のゴミ箱行きだと思われていた。ところが、今回は「政治的正しさ」が戦争の勝敗を分けるほどの威力を発揮した。
「正義と公正」のために戦う人間なんかいやしない。みんな自己利益のためだけに戦っているのだというシニシズムが支配的だった時代だと思っていたら、意外にもウクライナの市民たちは「正義と公正」を掲げて国際社会のモラルサポートを勝ち得た。「きれいごと」の現実変成力の大きさを証明した。 

―― 第二次大戦後、冷戦後の国際社会では自由や民主主義、基本的人権、法の支配が「普遍的価値」とされてきましたが、ウクライナ戦争でこれらの価値観は動揺しています。

内田 自由や民主主義は、欧米の啓蒙思想家たちが価値を見出したものですから、必ずしも「人類共通の普遍的な価値」とまで言えないと思います。しかし、それらの価値観は、暴力がすべてを支配する無秩序状態、「万人の万人に対する闘争」という自然状態から人類が脱却するために発明された生み出されたものです。その志の高さは掬すべきだと思います。
 今回ロシアは「力による現状変更」に踏み切りました。これがカミュのいう「越えてはならない一線」でした。これを認めてしまえば、人類は再び「力こそが正義だ」という、強者が弱者を支配し、収奪する無秩序状態に逆戻りしてしまう。「それだけは何としても避けなければならない」という危機感が、世界中の人々のうちにウクライナへの連帯感を醸成したのだと思います。

―― ウクライナ戦争は米中対立にも大きな影響を与えます。アメリカや中国の反応をどう見ていますか。

内田 アメリカの国内世論には、積極的にウクライナ戦争に軍事介入すべきだという声は少ないようです。オバマ政権以降、アメリカは内向きになって孤立主義の傾向を強めています。ウクライナ戦争でも、この流れは変わらないと思います。
 ただ、アメリカは自分の手は汚さずに、ウクライナに激しく抵抗してもらって、ロシアの兵員兵力が損耗し、経済制裁でデフォルトに陥り、国際社会で孤立した「二流国」に転落するシナリオを期待していると思います。ウクライナという「やすり」を使って、ロシアの国力を殺ぐことができるなら、アメリカが直接介入する必要はない。そういう計算をしていると思います。
 一方、中国はウクライナ戦争でかなり不利な状況に追い込まれました。経済的にこれからロシアを支えなければいけないからです。国際的孤立からロシアを擁護しなければならないのだが、「大義名分」がない。そこにはここでロシアを支えないと欧米諸国が「増長する」からというパワーゲームの論理しかありません。
 中国はプーチン政権を見切れない事情があります。プーチンが失権した場合には、ロシア国内に親欧米派が台頭する可能性があるからです。現に、プーチン自身が初期にはNATO加盟をめざしたくらいですから、ポスト・プーチンのロシアが「親欧米」路線にシフトする可能性は少なくありません。
 プーチンが失脚して隣国ロシアが政情不安定になることも、親欧米派が政権を取ることも、どちらも中国はまったく望んでいない。となると、中国にとってベストの選択は「プーチンの長期政権がいつまでも続くこと」だということになります。そのためには国際的に孤立し、貧国に転落するロシアを扶養し続けるという面倒な仕事を引き受けなければならない。たしかに短期的にはロシアの天然資源を安く買うことで多少の利益を上げられるかも知れませんが、中長期的には対ロ支援は中国にとってはきびしいコストになると思います

―― 台湾情勢にはどういう影響があると思いますか。

内田 これまで欧米のメディアは「中国は今日にも台湾侵攻に踏み切るかも知れない」という論調でしたが、ウクライナ侵攻失敗で、台湾侵攻のハードルは上がったと思います。
 今回、ロシアは短期間のうちにキエフを攻略して、ゼレンスキー政権を倒し、親ロ派政権を樹立してしまえば、ロシアにエネルギーを依存している西欧は既成事実を追認せざるを得なくなる、そう目論んでいたはずです。
 ところが、実際には短期決着に失敗した。そこで生まれた時間的余裕で、欧米は「力による現状変更は絶対に認めない」と一致団結して、経済的利益を犠牲にしてでも強力な制裁に踏み切るという合意形成を成し遂げた。これはプーチンにとっては予想外の展開だったはずです。
 ですから、中国が台湾に侵攻した場合も、同じことになる可能性が高い。台湾に侵攻しても、短期間に「親中派政権」を成立させて、抵抗勢力を平定して、秩序を回復するというシナリオは実現が難しい。台湾としてはとにかく激しく抵抗して傀儡政権の樹立を阻めば、その間に国際社会から支援を期待できる。世界の各国が自国の経済的な利益を犠牲にしても、対中国の経済制裁に参加した場合、中国がこうむる経済リスクに習近平政権は耐えられるかどうか。
中国共産党の一党独裁は経済成長率が年率6%を割り込んだら「危機水域」に入ると言われてきました。台湾侵攻に対する経済制裁で中国経済が失速した場合には習近平には失権リスクが生じます。台湾侵攻を成し遂げて自分の「レジェンド」を作ることの利益と経済の失速で政権を失うリスクを天秤にかけた場合に、どちらが「重い」と習近平が判断するか、そこにかかっていると思います。

―― 日本はウクライナと同じように「帝国の属領」になるのか、「独立した国民国家」になるのかという問題に直面しています。

内田 日本は「アメリカ帝国の属領」です。戦後日本は一貫して従属的平和を選択してきましたから、仮に中国に攻め込まれたとしても、アメリカが米中戦争を回避するために日本を見捨てたら、今度は軽々と「中華帝国の属領」になるという選択をするでしょう。
 日本人は目の前の現実に適応するふるまいを「リアリズム」と呼んでいます。世界はどうあるべきかについては何のアイディアもないけれど、どんな信じがたいものでもそれが現実だと思えばあっさり適応する。ですから、中国の支配下に置かれたら、自民党はたちまち親中派に転じて、嬉々として戦後民主主義体制を放棄して、独裁体制を敷くと思います。中国の属領になれば、いくらでも強権的に国民を支配できるし、市民的自由も奪えるし、うまくすれば戦争だってさせてもらえる。まさにそれこそ彼らが望んでいることなんですから。
 ただ、日本は米中対立の最前線にありますから、アメリカ帝国の属領にとどまるにせよ、中華帝国の属領になるにせよ、この先安定的に平和を維持するのは容易ではないと思います。

―― 帝国の属領になっても平和を維持できないなら、独立した国民国家を目指すべきです。

内田 それは不可能だと思います。今の日本人にはもはや「総力戦」を戦う力がない。個人的努力と国運の間のリンケージが切れているからです。
 安倍政権以来のネポティズム(縁故政治)が教えてくれたのは、国民が個人的努力の成果を税金として納めても、私権の制限を受け入れても、私財の一部を公共に供託しても、権力者とその取り巻きたちがそれを私物化するだけだということです。公共のための努力がことごとく権力者とその縁故者を肥えさせるだけと知ったら、誰が「国のために」汗をかく気になるでしょう。

―― それでも我々は日本の独立を目指すべきです。たとえ無駄な努力になるとしても、そのためにできることはありますか。

内田 それならば、真のリアリストになることです。ウクライナ戦争をうけて、自民党周辺では憲法改正や核共有の議論が勢いづいています。彼らは自分のことをリアリストと思っているんでしょうけど、それは違います。そのつどの現実に最適化しようとするのはリアリズムではなく、ただの現実追随主義です。ですから、ロシアが最初「力は正義だ」という強気な態度を示した時に彼らは一斉に「ロシアに倣って強大な武力を持つべきだ」と言い立て、ウクライナがはげしく抵抗すると「武力より愛国心がたいせつだ」と言い立てた。現実が変わるごとにころころと態度を変える。それが彼らのリアリズムです。
 しかし、真のリアリストとは現実に適応することよりも、現実を作り変えることを重んじる人のことです。そのためには「どういう現実が望ましいか」という理想をはっきり掲げなければならない。だから、まず「我々はどういう世界を目指すのか」という理想を問い直すべきです。
 その理想はすでに日本国憲法に書かれていると僕は思います。「日本国憲法はGHQの作文だ」と批判されます。その通りです。しかし、戦後日本人はそれを承知の上で、憲法が掲げた理想をめざして国民的な努力をするという方向を選んだ。憲法には日本の国益という以上の「上位価値」が書き込まれていると信じたからです。
 中国やロシアや北朝鮮のどこが「平和を愛する諸国民」なのかいう人がいますけれど、もともと憲法なんて、どこの国のものでも「空語」なんです。その空隙を国民的努力によって満たすべき空語なんです。人権宣言もアメリカの独立宣言もその点ではどれも同じです。そこに書かれているのはその時点での現実ではありません。目指すべき「理想」です。そこに書かれていることが非現実的であるというのは、目指す方向が間違っているということを意味するわけではありません。「宣言」について論じるべきはそれが現実的か非現実的かではなく、万人がその恩沢に浴すことのできる「上位価値」を目指しているかどうか、それだけです。(3月30日 聞き手・構成 杉原悠人)